False Island

Heat of Battle


 島の片隅で文化祭が開催されているその頃。

「ありがとうございましたー」
 客を送り出すと店内はフェンネル一人になった。カウンターに両手をついて息をつく。窓から入り込む日差しは柔らかく、暖かい。外から聞こえてくる談笑の声が実にわかりやすく平和な日常をあらわしている。
 ここは島で唯一のコンビニエンスストア。雑貨店ならば他にもは何軒かあるが、コンビニエンスと言えるほどには品数に富んでいない。品揃えの豊富さとユニークさでこの店の愛好者も多い。
 今でこそ和やかではあるが、今朝方までは戦場だった。開店と同時に制服の集団が押しかけ、ありとあらゆる物を買い漁っていったのだ。客の中に馴染みの顔を見つけて聞くと、島のどこかで文化祭が開催されるらしい。それの買出しであるとのことだった。
 嵐のような集団が引いてしばし経つ。忙しかったのが嘘のようなうららかな午後だ。ちょうど客足も途絶えたところで一息つこうとフェンネルはカウンター後ろの扉を押す。入りがけに振り返り、「誰か来たら呼んでね」と声をかける。
 木製のカウンターの上に座っていた小さな人形が、「まかされたでつ!」と元気よく応えた。フェンネル自身ををモチーフとして作られたコミカルな人形だ。人の手がなくとも動いて喋るので、知らない人が見れば生物と勘違いするかもしれない。
 人形はカウンターの片隅に置かれた商品、瓶詰めセイガさんに話しかけている。その無邪気な姿に不安がないではないが、少なくとも呼び鈴の代わりにはなるだろう。 それに今すぐ客が来るとも考えにくい。本当に驚くほど、店の周りには人気がなかった。
 人形に念を押し、扉をくぐる。
 店内と異なり、小窓しかないバックヤードは薄暗い。幅数メートルの狭い室内には事務作業用の机と、休憩用の長椅子が置いてある。奥には流し台と保冷庫もしつらえてあり、簡単な食事もできるようになっていた。更に置くに見える扉は倉庫に続いている。
 家具は両側の壁沿いに並べてある。机の奥には保冷庫という並びになっているのだが、そこに奇妙な物を見つけた。白くて長い二つの房だ。ちょうど机の天板から生えているように見える。天井に向かってまっすぐ立ち、時折左右に揺れる。
 そんな物、ここにあっただろうか。知らず歩みが摺り足となる。息を殺して近付いていく。
 その奇妙なオブジェはもちろん机から生えているのではない。どうやら机の陰に何者かがいるらしい。目を凝らして見ればどうやら動物の耳らしく、おそらく兎か、その類の獣だろう。
 机まであと数歩というところまで近付いた。それでも件の侵入者は気付いていないようだ。長身を生かし、上方からそっと覗き見る。
 そこで、大きな瞳と目があった。
 紅玉のように赤い目だ。そして暗い中に浮き上がる白い髪に目を奪われる。髪の中から長耳が伸び、揺れている。机から生えているように見えたのはこれだ。
 それは少女なのだろう。自分よりも一回りも二回りも小さい。中華服に身を包んでいる。小さな手が持っているのは銀の匙で、足元には茶色い器が幾つか転がっていた。

 そして白い頭がフェンネルの傍らを、
 彼が目で追うより早く、

「――え?」

 通り抜けて行った。

 銀の匙が床に落ち、澄んだ音を響かせた。
 後に残されたのは、黄乳色の塊がこびりついた陶製の器と、銀色の匙だけだ。
「プリン!」
 いつの間にいたのか、傍らの小さな人形が叫ぶ。その甲高い声に我に返った。
 そう、床に落ちているあの器は、
「とっておきの、プリン――」
 昨日、お客さんから貰った手作りの一品。
 事態を把握すると同時に、全身が沸騰した。滾った血がとてつもない速さで血管をめぐり、脳へと駆け上る。長い指を持つ手が懐の物を掴む。
 彼の中のもう一人の誰かが、ぶつりと何かが切れる音を聞いた。
「――返せぇっ!!」
 身体を反転させ、咆哮とともに懐から銀色の“星”を迸らせる。
 それは流星の如き速さで床上を駆け抜け、侵入者の足首に絡みついた。扉に手をかけ、今まさに出て行こうとしていた身体を引き倒す。小柄な体躯が平衡を失う。
 流星錘という東洋の暗器の一種である。長縄の先端に錘を付けただけの武器で、錘を投擲して攻撃する。自在に操るには相当の鍛錬が必要だが、一度扱いを身に着ければあらゆる場面で役に立つ。例えばそう――盗人を捕らえる時などに。
 しかし、相手もただの盗人ではなかった。顔面から着地する寸前に両腕を突っ張る。ちょうど腕立て伏せの姿勢だ。沈むだけ身体を沈め、そのまま反動で――跳んだ。
 侵入者は天井に当たるか当たらないかというところまで高く跳躍した。フェンネルとの間を繋ぐ縄が目一杯張り詰める。突然腕にかかってきた負荷に足を踏ん張り、フェンネルはこれでもかと縄を引いた。
 そこで唐突に重さがなくなった。
 全体重を支えていた物がなくなり、フェンネルの身体が後ろに傾ぐ。少し長く伸びた前髪の間から、縄が白い物を絡め取っているのが見えた。白い物体は伸びやかに空中に広がり、フェンネルへと迫ってくる。
 少女が履いていたズボンだとようやく理解した頃、それが顔面に着地した。
「もー、てんちょーさんのえっちー」
 開け放たれた扉の向こう、店の方からそんな声が聞こえた。尻餅をついたフェンネルは慌てて立ち上がり、店内へと急ぐ。
 カウンターの上に、幼い娘がしゃがみこんでいた。頭頂から生えた兎様の耳が天井に向かって直立している。膝を抱えた姿勢のまま不満げに頬を膨らませていた。桃色の中華服はワンピースのように裾が長く、幸いにして下着が見えるような作りではない。
「ズボンかえしてー」
 幼い両手が差し出される。フェンネルは、右手に白布を握ったままであることに気が付いた。ゆったりとしたサイズの、子供用のズボンだ。やけに生暖かい点については考えないこととする。
 手に持ったズボンを見て、少女を見た。二人の困惑した視線が交差する。ここに今、事情を知らぬ客が入ってきたら何と思うだろう。
「それよりも先に言うことがあるでしょう」
 返してと言い続ける少女に、フェンネルはきっぱりと言い放った。女児のズボンを剥いでしまったという衝撃に忘れかけていたが、そもそも流星錘を投げつけたのには理由がある。腹に溜まっていた怒りが再び沸き立ってきた。
 しかしまだ鍋の中身はぶち撒けない。フェンネルだって鬼ではない。むしろこの界隈では温厚な性格で通っている。本来の彼は笑顔が絶えない好青年である。ここで素直に謝罪があれば許しても良いとも思っていた。
 なのに。
「しらない」
 兎娘は唇を尖らせてそっぽを向いた。

 本日二度目。頭の中で何かが切れた。

 最大限の譲歩すらも拒まれ、
 ここに、戦いの火蓋が切って落とされた。

「盲しいた妄執の果て――汝は其に満たされるかは」
 フェンネルは肩幅に足を開き、腰溜めに構えた。射撃に似た姿勢であるが、銃火器の類は携えていない。両手は開いたまま腰裏に隠す。
 背後、つまりカウンターの中には怪談集のDVDが陳列されていた。壁には「宝くじはじめました」の張り紙。武器になるような物はない。
 兎娘はカウンターから飛び下り、距離を取って陳列棚の間から青年の挙動を待つ。腕は両脇に垂らしたままだ。広い袖から覗く手中は空。弛緩した指先は床を指す。
 二人の目から柔らかな感情が消えた。赤い瞳と青い瞳に冷徹な色が宿る。この島の探索者ならば誰もが持つ色だ。生き残るための、闘争者としての瞳。
 両者とも視線を相手から外さない。挙動を読むには視線を読む。視線を読まれれば挙動が読まれる。初手をどう繰り出すか、どう繰り出されてくるのか、どう反撃するか。頭の中を推測で埋め尽くしていく。
 しかしどれだけ頭で考えても、結局は相手の挙動に合わせて動くだけだ。互いの手の内はまだ完全にわかっていない。フェンネルは流星錘を繰り出したが、彼の得物はそれだけなのだろうか。少女は戦う者としての肉体はあるようだが、戦士なのか魔法使いなのか、いまひとつ判然としない。
 未知の物に無闇に撃ち込むのは愚かな臆病者だけだ。このような場面では最善の先手を打ち込むのではない。相手を動かし、後の先をとったほうが勝ちとなる。
 時の流れが遅い。
 微かな衣擦れですら耳障りだ。自分の呼吸も鼓動も止められるならば止めたいくらい。極限まで神経を張り詰める。
 視覚、聴覚、触覚――感覚を研ぎ澄まし、外部入力全てを分析にかかる。
 もう冬だ。だいぶ日が短くなり、まだ早い時間だというのに西日が差し込んでくる。窓からの陽光を受け、舞い上がった埃がきらめく。
 どれだけそうしていただろうか。
「プリン!」
 声は唐突だった。
 初手は全くの同時。フェンネルが両手を前方へと振り抜き、兎娘は陳列棚に飛びかかる。
 鉛色の分銅がフェンネルの手から射出された。一つ、二つ、三つ――総計八つ。分銅は尻に結わえ付けた縄を引いている。ミサイルのごとく兎娘を目指す。勿論、縄のもう一端はフェンネルの手中にある。先ほどの流星錘よりも更に二周りほど小さな錘だ。初速は上がり、加えて複数。新たな流星錘は散弾のように広がり、緩やかな曲線を描いて飛来する。そう簡単には標的を逃さない。人力で全てを避けるのは不可能に近い。
 しかし、それは避けなければいいだけの話。
 兎娘は陳列棚の中ほどの一段を両手で薙ぎ払った。薄手の布地が少女の周囲に舞い上がる。それは思いっきり売れ残っていた、シースルー素材の男性用下着だった。
 分銅が撒き散らされたデコイ、もとい男性用下着を絡め取っていく。八つ全てが兎娘に到達することなく、地に落ちた。
 フェンネルはすでに流星錘の縄から手を離している。カウンターの下に横たえてあった長柄を蹴り上げ、手中に収めていた。カウンターを乗り越え、長柄の先を兎娘に向ける。
 それは方天戟と呼ばれる。長柄武器の完成形とも言える武具だ。槍の穂先に翼のように三日月状の刃が備え付けてあり、かなり大降りの物だ。見た目にも威圧感がある。る。刺突のみの槍とは異なり、斬る、叩くといった多彩な攻撃を可能とする。刃の分、重量も相当の物となるのだが、フェンネルは棒切れでも持つように軽々と扱っていた。
 一方、周囲に男性用下着を撒き散らした兎娘もまた、己の武器を手に身構えていた。薙ぎ払った勢いで舞うように回転し、再びフェンネルに向き合う。その手に握られているのは一尺五寸ほどの長い笏だった。銀色のそれは周囲を映すほどに磨き上げられている。
 パンと小気味いい音とともに笏が開いた。曇りない鏡のごとき扇だった。大きく開いた扇面の先端は鋭利に研ぎ澄まされている。
「鏡扇《幽月》――れいちゃんのいらなくなったまきょーからつくってもらったのよん」
 兎娘が邪気のない口調で言った。
「れいちゃんってもしかして、蒼凪さん?」
 知り合いの少女がそんな名前だった。
「そうよー。これがあると、れいちゃんとおんなじちからがつかえるのよー」
 扇を返して見せようとするが、小柄な身には余るのか平衡危うく足元が浮く。
「蒼凪さんのお友達なんだね。お名前は?」
 構えはそのまま、声だけは柔らかにフェンネルが問う。
「メイ。メイファ・レッキス」
 足を踏ん張り直して兎娘、メイファが答えた。
「ありがとう、メイさん。少々キツイお灸を据えさせてもらうよ――食べ物の恨みは深いんだ!」
 フェンネルが一歩踏み込んだ。たったそれだけで長身の青年はメイファの間合いに到達する。
 突き入れられた穂先を、メイファは上体を仰け反って避ける。しかし前述の通り方天戟は刺突だけの武器ではない。フェンネルは手首を捻り、刃を真下へ向けた。ちょうどメイファの平らな胸の真上に当たる。そのまま落とせば肋が割れる。
 だが、メイファの握る扇とて払い斬るだけの武器ではない。広げた状態のまま胸の上に挿し入れ、落ちてくるギロチンを弾き返した。そのまま刃を滑らせて床に落とす。刃は木床を割り、大きな亀裂を作った。
 刃を抜かんとフェンネルは柄を握る手に力を込める。その傍らをすり抜けざま、メイファは扇の要を腰部に打ち込んだ。腰は文字通り人体の要である。そこを強かに打ち付けられ、フェンネルは言葉にならない呻きを上げた。
「よりによって、そんなところッ」
 歯を食いしばり、引き抜いた刃を振り回した。痛む腰を大きく回して遠心力をかける。
 壁が削れ、棚がひしゃげる。湿気取り用の竹炭が、ホームランバーが、原型を留めぬほどに砕け散る。
 標的を定めないがむしゃらな円撃がメイファに届くはずもない。飛んでくる元商品の欠片を扇の一振りで払い、兎少女は更にフェンネルから距離をとった。フェンネルは手を休めない。回転する力のままに大きく腕を引き、腰を落とし――疾駆する銀の光。空気を裂く一閃。
 電撃の如く、とはこのような一撃のことを言うのだろう。布を裂き、赤い血が飛び散る。しかし、心臓を狙ったはずの穂先は布腕をわずかに抉るだけに留まった。メイファは辛うじて扇で急所を逸らせた。だが、体が軽いためにに後方へと弾き飛ばされる。少女はカウンターに背を打ちつけ、苦しげな息を漏らした。
 もとより二人の体格には大きな差がある。フェンネルの一歩はメイファの三歩に相当する。屋外ならばいざ知らず、狭い店内であれば少女を捕らえるのは容易い。
「もう! てんちょーさんおとなげないのよ!」
 メイファはその場にしゃがみこむ。頭のすぐ上を刃が薙いだ。破砕すべき対象を失った方天戟はカウンターを削り、勢いでカタログラックを真っ二つに割った。
 しゃがんだメイファは体重を前にかけ、後ろ足に力を込めた。即座にロケットスタート。両耳を後方へ流し、扇を閉じ、一つの弾となってフェンネルを目指す。
 フェンネルが穂先を引き戻すよりも早い。あっさりと懐へ潜り込んだメイファは、閉じたままの扇で逆袈裟に斬り上げた。
 しかし、メイファの踏み込みは甘かった。フェンネルは彼女が思っている以上に細く、胸板も薄かった。それこそ胸筋が専業戦士のそれだったら胸が割れていたかもしれない。実際は、扇は胸板まで到達せず、服を裂いただけだった。
「やっば」
 メイファが呟く。柔和なはずのフェンネルの顔が鬼のように見えた。
 子兎は、胸の中。
 大きな手が少女の首根っこを捕まえた。待っているのはお仕置きに決まっている。
「うー」
 宙吊りにされたメイファが唸る。手足をばたつかせるが、短いのでどうしても青年まで届かない。
「さて、どうしようかな。店番? 掃除?」
「やーなのよー! メイはせんしなのよー!」
「はいはい、偉いね」
「こどもあつかいするなー!」
 どう見ても子供である。駄々をこねる少女を、さてどうしようと考える。
「ほんきだしちゃうのよっ」
 少女が短く息を吸った。歌うように発声。フェンネルはハッとして思わず手を離した。髪の毛の先が細かく震えるのを感じる。
 解放された少女は小走りに離れ、反転して向き直った。
 島を満たすマナが収束していく。
 緩やかな呪言が途切れなく続く。
 メイファが魔力を編んでいる。魔術を行使しようとしているのだ。
 近接攻撃を得手とするフェンネルにとって、魔術は最も苦手とするものだ。物理法則を曲げて放たれるそれは、武器では抵抗しようがない。しかも間合いを取られれば妨害もかなわないので性質が悪い。暗記の扱いを会得したのも、その間合いを少しでも埋めるためだった。
 ならば、先に魔術師を落とせばいい。集中を切れば発動できなくなる。
 方天戟の柄を引き寄せて短めに持つ。両手で固く握り、思い切り踏み込んで突き入れた。届くか届かないかという距離だ。即座に腕を引き、また踏み込んでは突く。メイファとの距離を縮めながら、フェンネルは連激を繰り出していく。
 連続した突きである分、一撃一撃の重さはさほどではない。しばらくは扇で受けたりいなしたりしていたメイファだったが、大きくバックステップで下がり、開いた扇を下方へ向けた。
「――」
 発動の言葉。魔術の完結。
 収束した魔力が一つの属性を持って形を得た。在り方は固体。持てる属性は水。氷盤だ。氷の膜が円状に展開し、メイファとフェンネルの間に立ち塞がる。
 しかし、氷箔にも青年は怯まない。猛烈な刺突で粉砕していく。凍気が青年の頬を撫でる。
 下した氷盤の向こうには、兎娘の姿がなかった。
「――上!」
 フェンネルは方天戟を放り出し、飛び込み前転の要領で前方に身体を投げ出した。ワンテンポ遅れ、それまで青年がいた場所に鋭い扇が突き立たる。
「うわ、わわわ」
 その扇目掛けて細長い円錐状の物体、極太の氷柱が降ってきた。一本だけではない。前方へ転がっていくフェンネルを追って、氷柱が次々と床に突き立っていく。あれに串刺しにされるなんて冗談じゃない。
 と、フェンネルの頭が壁にぶち当たった。そこから先に進めない。触れると重厚な木板だった。
 カウンターまで追い詰められたらしい。もう駄目だ、と血の気が引いた。昆虫標本よろしく床に張り付けられる自分の姿を想像する。
「むーん。てんちょーさんすばしこいのよー」
 破壊を免れた陳列棚の上でメイファが眉根を寄せていた。指先に挟んだ紙、呪を刻んだ術符が崩れて消えた。氷柱の落下も止まる。魔術の効果が切れたのだった。
 逆立ちを失敗したかのような格好で、フェンネルはカウンターの側面に背を預けていた。間一髪、鼻先には一際大きな氷柱が突き立っている。
 己の幸運を喜び、フェンネルは這いながらカウンターに入り込んだ。
 不測の事態に備え、カウンター下には幾つか武器を隠してあった。この島は物騒なことには事欠かず、用心しすぎることはない。最も使い勝手のいい方天戟は手放してしまったが、まだ鉾槍も半月斧も幾つかあったはずだ。
 潜りこんで探っていたところに、
「おっきくやっちゃえばいーよねー」
 そんなのん気な声が聞こえてきた。
 カウンターから少しだけ頭を出して、メイファの様子を伺う。兎娘は床に下りて再び鏡扇を握り、幾枚もの術符をばら撒いていた。
 毛先の震えが大きい。先ほどの比ではない。周辺に漂っているのであろう魔力が急速にメイファに引かれていくのを感じた。
 水平に開かれた鏡扇が淡い白光を帯びる。鏡の上を滑るように光球が走り、魔法陣を形成していく。複雑な文様のはずなのに、その動きは驚くほどに早い。
 咄嗟にフェンネルは足元の布を掴み、頭から被った。

「現象具現化――《万魔殿》」

 所詮は借り物の力であると少女は重々承知していた。
 元よりメイファは魔術師ではない。元々傭兵として旅暮らしだった身の上。むしろフェンネルと同じ、武器を手に近接で戦うほうが得意だった。
 だから魔術師が長年かけて習得する理論やら鍛錬やらをすっ飛ばしている。零ほど上手く魔術を操れないのは当たり前のことだ。それを持ち前の体術でカバーして、なんとか渡り合っていけるところにまで持っていっているだけだ。
 そんな自分だから、純粋な魔力放射などしたところで、大した効果はないと高を括っていた。

 メイファが行使した魔術は何だったのか。
 勿論、布を被ったフェンネルには見えていない。ただ、暴力的なまでの破壊の力が辺りを縦横無尽に暴れまわっていることだけは理解できた。カウンターを叩く無数の弾丸のような音。一つ一つは小さくても数多く当たればやがて穴を穿つ。被った布越しに降り注ぐ礫にフェンネルは顔をしかめた。
 轟音が耳朶を叩く。長いような短いような時間。
 もはやノイズの海としか捕らえられなくなった頃、唐突に音が止んだ。礫も止んだ。
 カウンターの穴から覗き見て、それ以上攻撃がないと確認したところで這い出てきた。
 ぐるりと店内の様子を見る。惨憺たる状況だった。陳列棚は跡形もなく砕かれ、天井も壁も大変風通しがよくなっている。天井板は垂れ下がって梁が剥き出した。一際大きな穴からは青い空が見える。一言で言えば廃墟。数刻前までここが店だったと誰が思うだろう。
 悲しみも怒りも通り越した。感情が麻痺した脳が、柱と梁が健在であることを確認する。バックヤードも無事。倉庫も問題ないだろう。ひどい状況なのは店舗部分だけで、これも数日あれば綺麗に直せる。すぐに営業再開できそうだ。
 まったく、プリン一つでこの様だ。腰に手を当て、大きく溜息を一つ。冷や汗を拭おうとして、握ったままの布を見た。
 それはメイファのズボンだった。フェンネル自身は知らないことだが少女の衣服は魔衣であり、これがフェンネルを魔術の雨から守ったのである。
 ふと服の持ち主の姿がないことに気が付いた。カウンター前に鏡扇が放り出されているきりで、主が見当たらない。
 カラン、と乾いた音がした。まさかと眼光鋭く振り向く。
「助けるでつ! 助けるでつ!」
 割れてしまった瓶詰めセイガさんに埋もれて、小さな人形が叫んでいた。フェンネルが小さい人形を引っこ抜くと、小さなセイガさんズは蜘蛛の子を散らすように去っていった。
「参ったね、ホント」
 腕の中で暴れる人形をなだめる。その背後に、
「とったりなのよー!」
 まったく凝りない声が飛び掛ってきた。
 フェンネルは振り返りざま、腕を振り抜いた。

 暗器とは、人に知られずに隠し持つ武器のことである。手ぶらのように見せかけるのは人の油断を誘うため。そして、手の内を悟られないためである。
 そう。暗器使いはここぞという時のため、奥の手を用意しているものだ。


 文化祭はお祭である。そしてお祭中に物が不足するのはよくあることだ。
 じゃんけんに負けて買出しを命じられ、零はメモを携えてコンビニエンスストアへと急ぐ。同級生が地図を書いてくれたけれど、何度も通った店だ。道を間違えようもない。
 だけど、この日ばかりは思わず地図を見直した。
 辿り着いた場所にはいつもの店はなかった。
 零が知っているコンビニは、中が見えないほど窓が汚れていたりしない。ましてや壁に穴が開いていたりもしない。
 どこの廃屋かと思うほどに荒れ切った店がそこにあった。
「あのー……」
 辛うじて蝶番で垂れ下がっている木の板を押し、忍び足で零は中に入る。片手はポケットの中の術符を握っていた。
 瓦礫を踏んで音を立てないよう足を踏み入れたが、店内に見慣れた姿を見つけて緊張を解く。
 が、そう簡単には安心していけないようだった。あまりにも異様な光景に、ポケットから抜き出しかけていた手が止まる。
「……店長、さん?」
 知らず、声は咎めるような調子になった。
「あ、いや、蒼凪さん、これはね」
 青年は慌てて何かを言おうとするが、何と言われても言い訳にしか聞こえないだろう。
 そこには天井からロープで吊られているメイファと、ボロボロシャツのフェンネルがいた。

ENo.600 フェンネル・ロックハートさんお借りしました。
ありがとうございました。

False Island
書いた人:蒼凪零(439)PL