偽島if ―大学編―
時々夢を見る。
それはここではない場所で、私は知らない人たちと共に遺跡の中を歩いている。
遺跡というからには建物の中のはずなのに、森や砂漠や平原が広がっている、不思議な空間。
そこには異形と化した動物や魔物たちがいて、私たちに襲いかかろうと目を光らせている。剥き出しの敵意が全身に突き立たる、とてつもない緊張感。
そして時折起こる衝突。
私は細長い鈍器を構え、飛び出してきた化物をいなし、地に屠る。
そんな殺伐とした毎日が続く夢。
私は何かを追い求めている。
それが何かわかりかけるところで、いつも目が覚める。
夢は断続的に見る。
時系列がめちゃくちゃで、見る風景も出てくる人物もいつもまちまちだ。
頻繁に出てくるのは一人で二人の青年、茶色い髪の少年、やたらと素早い少女、仮面の女、醍兄さん、バケツ、鳩、他にもたくさん。
同じ年頃の女の子もいる。
その女の子は、何故か親友によく似ていた。
ある地方都市にある大学の話。
灰色の雲が去れば、柔らかな風とともに春がやってくる。
五号講義棟の出口の桜も満開になった。蒼凪零はまだ若い木を見上げ、ほのかに甘い香りに目を細める。木の下にいると花に包まれているようだ。
背景の青い空に、白い花弁が映える。思わず携帯電話のカメラで一枚撮り、誰に送るか悩んで父親に送信した。父親は仕事で北方へ行っている。あちらでは開花はまだだろう。先日など、また雪が降り出したと連絡があった。新幹線で三時間程度の距離なのに、随分と気候が違う。
一足早い春の便りを送り、ふと顔を上げると、新入生であろう集団が賑やかに話しながら零の横を通っていった。手にした教科書やノートは新品だ。どの顔も朗らかで、これからの学生生活への希望に満ちている。一年前の自分もこうだったに違いない。それがやけに遠い日に思え、郷愁のようなものが胸を過ぎった。
「お待たせ」
ぼんやりと新入生を眺める零の肩が叩かれる。
「次、講義ある?」
友人の式村彩だ。零と同様に大き目のバッグを抱えている。ノートに教科書にと詰め込むと、どうしても大容量になってしまう。しかも彩はお菓子もたくさん入れていることを零は知っている。
「ううん。今日はもう終わり」
零がそう言うと、彩は携帯電話を開いた。時刻は午後三時半を過ぎたところだ。
「私もないんだよね。お茶でも飲みに行かない? 春限定のイチゴパフェ食べたいな」
「いいね。いつものお店?」
「うん」
かれこれ一年も付き合いがあれば、『いつもの店』で通じるようにもなる。
「その前にちょっと生協寄ってっていい? 教科書買わないと」
「いいよー」
二人はゆるりと歩き出した。新学期が始まったばかりのキャンパスは人も多く、いつもよりも明るい。皆、新しい季節に胸を高鳴らせているのだろう。
「履修決めた?」
零は環境社会工学科、彩は生命科学科に所属している。学科は異なっているが、同じ理工学部なので顔を合わせる機会も多い。むしろ学部に女性が少ないので、入学当時から積極的に仲良くしていたほうだ。
それに学部が同じであれば一部の履修科目も被る。今日は数学の講義が一緒だった。
「うん。教養はもうほとんどないから専門ばっかり。残りは体育と語学と、あと趣味で行政のIIも取ろうかな。あ、経営も残ってた気がするな」
零はバッグからシラバスを引っ張り出してめくる。一昨日配られたはずのそれには既に付箋がたくさんついていた。きちんと色分けされているところに性格が出ている。チェックした講義は全て取る気なのだろうか。
「あんた去年何単位取ったのよ」
えーと、と呟いて零は指を折っていった。長くなりそうな気配に彩は手を振る。
「あー、わかったわかった。零は真面目すぎよ、まったく」
「今頑張ると後が楽になるんだよー」
零は付箋だらけのシラバスをバッグに戻しつつ「学生の本分は勉強だしね」とさらりと言った。
「みんながみんな、あんたみたいに頑張れるわけじゃないんだってば」
すれ違う後輩たちの明るい笑顔を見ながら彩はうんざりと言った。あの顔も数週間後にはレポート地獄で青褪めるに違いない。後期になれば実験演習科目も増えてくる。大学は遊べると思ったら大間違いだ。去年は本当に大変だったわ、と彩は呟く。今年の履修計画表も大概なものだが、今はまだ考えないこととする。
春先は束の間の自由時間。これから忙しくなることを思えば、この短い時を満喫したくなるのも当然のこと。零と彩は他愛無いお喋りを交わしながら、いつもよりのんびりと麗らかな午後のキャンパスを歩いていく。
「そういえば聞いた? 水城先生のところに来た留学生さん、すっごい美人なんだって」
零の口から思いがけない話が出て、彩は少しだけ驚いた。指導教官が決まっていない二年生の二人には、研究室の噂はまだ少しだけ遠い話だった。
「水城先生のところって男ばかりじゃなかったっけ」
理工学部は元々女性が少ないが、物質材料系の水城研究室は特に女性が寄り付かないことで有名だった。水城教授は悪い先生ではない。だが、どうにも地味な印象が強いらしい上に男所帯なものだから、研究生からは女性が消え、いつしか「男子寮」とまで揶揄されるようになっていた。
その水城研に女性、しかも美人が来たとなれば噂になるのも当然だろう。
「うん。紅一点って感じだよね」
「醜い争いが起こりそうな気がするわ……」
あの人たちが美人に相手にされるわけないのに、と辛辣な一言を付け加えるのを忘れない。
五限目の講義開始のチャイムが鳴った。春の陽気のせいか、心なしかチャイムの音ものんびりと聞こえる。何となく講義がないことの優越感に浸っていると、突然零が彩の後ろに隠れた。
「どうしたの?」
俯きつつも、バッグの陰から前方を覗き見ている。
そんな二人の目の前に、
「あ。フェンネルさんだ。こんにちはー」
「やあ、こんにちは」
金髪に青い瞳の青年が現れた。すらりとした体躯で生協のエプロンをつけている。勿論彼はれっきとした生協職員だ。日本に惚れ込んで住み着いて、永住するつもりで働いている。日本人でない職員というのも珍しいが、あまりにも馴染みすぎて学生たちからは『生協のお兄さん』として親しまれていた。
零は彼に気付いて隠れたのである。彩は知り合って一年になるが、彼女の男性恐怖症が改善している様子はまったくない。なだめるように肩越しに頭を撫でててやる。
配達中なのか、青年は古びたダンボール箱を抱えていた。
「何ですか、それ」
彩はつまむようにしてダンボールの蓋を開けた。そこには錆びてくすんだ金属の壷が入っていた。胴は丸く、細く長い口が伸びている。口には栓がしてあり、更に紙片で封印されていた。
「倉庫の奥で見つけたんだ。売り物ではないようなんだけど、誰もこれの正体知らないんだよね。蓋も開かないし、大学の人に鑑定してもらおうって話になったんだ」
まじまじと壷を見る彩の肩越しに零も覗いている。最初は好奇の目で見ていたが、やがてその表情が曇ってきた。
「それ……無理に開けないほうがいいですよ」
「え?」
驚いたフェンネルに真正面から見詰められ、零は彩の背後に引っ込む。
「あまりいい物ではないと思います。何か嫌な予感がします」
「何それ。お化けでも出てくるの?」
「そんなことはないと思うけど……」
からかうような口調の彩に、零は言葉を濁す。
「私が神経質なだけかもしれません。だけど、気をつけてくださいね」
「ありがとう。あ、そうだ。新年度セールやってるからどうぞよろしく」
エプロンのポケットからチラシを取り出し、彩と零のバッグにねじ込んでいった。
「店長よりもよっぽど営業熱心だよね」
ねじ込まれたチラシを抜いて、彩はしみじみと言った。チラシには、ブルーシートを始めとしたお花見グッズ十五パーセントオフの文字が踊っている。そういえばキャンパスのどこかしらで毎日花見の宴会が行われていた。
「ほら、零行くよ!」
まだ後ろに隠れたままの零を肘で小突く。
ひらりと桜の花が舞う。
穏やかな春のある一日。
これから訪れる嵐など知る由もなく。
控えめなノックの音。一回目は無視した。
二回目はもう少し強い音だったけれど、これも無視した。
少し間が空いて、帰ったかと思ったら三回目が鳴った。
「どうぞ。生憎と先生たちは出払っていますが」
そこでようやく返事をした。
声の主である女性はモニタから目を離さない。液晶の画面上をのたくっているのは株価のグラフだ。金糸のような髪をぞんざいにかき上げる。細めた目は瑠璃のような色で、鋭い知性の光を宿している。
「生協のロックハートです。手が塞がってるんで開けてもらえませんか」
扉の向こうの声に、女性は舌打ちして立ち上がった。タイトミニのスカートから伸びるのは見事な脚線美だ。胸部にややメリハリが足りないが、スレンダーなモデル体型というやつだろう。白衣すらドレスに見えるほど豪奢な容姿だ。
扉を開けると、目の高さには生協のエプロンがあった。頭は更にその上だ。睨むように金髪の青年を見上げる。一瞬だけ視線を合わせ、すぐに踵を返した。
「話は聞いています。箱はそこの机の上に置いておいてください」
そっけなく言い、白魚のような指で実験机を指す。
「あの、無理です……」
困ったようにフェンネルが言った。机の上には雑多な実験器具が並んでいる。ガラス製品も多いから迂闊に触ることもできない。
「めんどくさいわね」
女性はそう言いながらも机の上を分け、置く場所を作ってやった。
偶然などない。全てが必然。
全てが彼の者の思惑のまま。
「あれ? 醍にーさん何しに来たの? 学校は?」
イチゴパフェを十分堪能して、彩と零は一旦大学に戻ってきた。そこで珍しい姿を見つけた。
「何しに来たとかご挨拶だな。俺がいて悪ぃのか」
見間違えようのない広い背中。従兄弟の醍だ。県内の高校で教鞭を執っている。
卒業式恒例のお礼参りを無傷で返り討ちにしたとか、地元の暴走族を壊滅させたとか、まだ若いながら数々の逸話を背に負う伝説の教師でもある。
「後輩に用事があってな」
「あー、百目木先生だっけ。あの変な人」
「確かに変わってはいるけどな……」
壷の分析は簡単には終わらなかった。
表面を覆う青い錆は間違いなく緑青だった。けれど肝心の本体部分は銅に似て否なるものだ。銅ならば電気を通すはずが、まったく導電性がない。張り付けた電極から何万ボルトもかけてみたが検流計の反応がなく、ただわずかに震えるばかりだ。むしろ電気を通すどころか吸収しているようにさえ思える。
「合金でも、銅が混じっていれば少しは電気通すはずよね」
不可解さに眉根を寄せ、エレニアは溜息をつく。傍らいるサラは、そんな姪の様子をにこにこと見ているだけだ。
「この封印、見たことあるわ」
念のためと着けていた絶縁手袋を脱ぎつつ、エレニアはためつすがめつ壷を見る。栓を覆うように貼られた紙には、ミミズのような線がのたくっている。
考古学の心得もあるエレニアには、古代ヘブライ語の文字が繋がっているようにも見えている。だが、はっきり読めないので違う言語と思ったほうがよさそうだ。
「カバラっぽいから魔術の封印なのかな」
「じゃあニアちゃんなら開けられるんじゃない?」
サラが封紙の表面を引っ掻く。
「あ、ダメ――」
そう、それは新たな宴の始まり。
「店長! フィギュアの入荷はまだでつか!」
甲高い声に頭上を見上げた。
「え?」
生協の店先で箒を握るフェンネルの懐に、小さな影が降って入ってきた。
「店長!」
それはどことなくフェンネルに似た、小さな人形だった。どういう原理なのか、喋って動いている。
人形が降ってきた空には黒い雲が広がり始めていた。
鈍い地響きが続く。
「あれは……」
人形を抱えたまま地に伏せた。棚が揺れ、商品が床にばら撒かれていく。
「フェンネル君も早く逃げて!」
店長が声を張り上げ、正門のほうへと走っていく。その反対側に目を向けると、舞い上がる砂埃の中に佇む小柄な人影が見えた。青い髪の少女が二人、どこか虚ろな目でいる。
「アリッサと、メグリア」
息を呑む。胸元の人形はきょとんとした顔でフェンネルを見上げていた。
「あれは、夢じゃなかったのか」
転がっていたモップの先端を取り、ただの棒にする。両手で握って感触を確かめ、かつて見た夢と同じように力を込めてみた。すると、先端が仄青い光を帯びる。
「僕にまた戦えと……?」
一瞬見えた迷い。
しかし棒を一閃させると、フェンネルは少女に向かって走り出した。
蘇る記憶。
夢と現実の境界が消える。
百目木と別れた矢先のことだ。研究棟を出た醍を、全身草に覆われた二足歩行の人型が取り囲んだ。
「何だお前ら」
しかしそこは伝説の教師。この程度のことで動じたりしない。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、異形を睥睨する。
しかし、醍が殺気を漲らせているにも関わらず、全身から雑草を生やしたように見える人間たちは、無言で迫ってきた。そして限りなく近付いたところで、一斉に飛び掛ってきた。
「オラァッ!」
束になって襲いかかってきた雑草人間を、ヤクザキックで蹴り倒す。これが高校教師だとは誰も思うまい。
薙ぎ倒し、ぐりぐりと足蹴にしているところで、
「甘ぇよ」
上体を横に反らした。頭があった辺りを、後ろから刃が貫いていった。
「ほう、少しは歯応えがありそうだな」
つやのある桜色の髪を二つに結い上げた女だった。青い瞳に醍の姿が映っている。巨大な槍を突き出した姿勢のまま、醍から目を離さない。
ただならぬ気配に醍の肌が粟立つ。
立ちはだかるは、四珠の守人。
「なるほどね」
エレニアは屋上から砂埃の渦を見下ろしていた。中心には黒スーツを纏った男らしき姿が見える。その足元からは巨大な装置がせり上がってきていた。
「あの偽物の島の再現てわけだ」
手元の測定計はメーターが振り切れている。自作の魔力測定計だ。この世界ならば針が反応するはずがないものだ。
「件の女神様って奴もいるのかしら」
荒れ狂うキャンパスを眺めつつ、どこかのんびりした口調でサラが言った。
「さあね。そんな奴どうでもいいわ。やってやろうじゃないの。今こそ、私の研究成果を見せるとき!」
エレニアが立つ研究棟が二つに割れる。割れた中にはぽっかりと穴が開いていた。そこから迫り出してくる、黒い影。
「スーパーメカモッサー、スタンダップ!」
エレニアが指を弾き、影が咆哮とともに立ち上がる。研究棟の高さを優に超える、巨大な人型ロボ。
それは何故か、表面全てに緑色の毛が生えていた。
そして宴の主催者。
逃げる二人の前に、ふらりと男が立ちはだかった。
「待ちなよ、お嬢さん方」
にやついた笑顔だ。ぼさぼさの黒髪にサングラス、アロハシャツといういでたちは、だらしのない中年男にしか見えない。
「――」
零は呆然と男を見ていた。会ったこともないはずなのに、無意識に口からある名が漏れた。
「え?」と彩が聞き返すよりも早く、赤い炎の塊が二人に襲い掛かってきた。男が両掌から放ったのだ。
「んもう、仕方ないなぁ!」
零はバッグを投げ出し、懐から紙切れを取り出す。短冊状のそれには筆で文字が書いてあった。
手首を返し、大きな円を描く。軌跡はそのまま水盤と化す。飛んできた炎を阻んで相殺し、消滅する。
「零、それ……」
「黙っててごめんね」
少し悲しそうな顔で笑う。できることならこの力は使いたくなかった。特に、親友の彩にだけは見られたくなかった。
人と違う力は不幸になるだけだ。そんなものを持っていると明らかになれば、待っているのは好奇の瞳。化物を見る目。
彩にも軽蔑されるかもしれないという怖さがあった。いつも不安を抱えて生活していた。けれど、今は親友を守るほうが先だ。
「説明は後でするから、逃げて!」
駆けていく親友の背中。それを見つめて彩は呟く。
「あの島は夢じゃなかったってことか」
零が呟いていた「イガラシ」という名前を、彩も知っていた。
全て夢泡と消えたはずの偽りの島。そこで宝を守っていた男だ。たしか、真っ赤に焼けた石を持っていた。
「そっか。零はあの子だったんだ」
夢に出てきた女の子と、零の笑顔が重なる。
そう。入学式の日に零を見かけた時の既視感は既視感ではなかった。それより以前から知っていたのだ。
逃げることも忘れ、呆然と立ち尽くす彼女の背後から、
「姐さん、久し振りッス」
そんな声が聞こえた。
振り向けば、夢で何度も見た男だ。その姿に彩は笑う。
「あんた骨に戻ってるじゃないの」
「姐さんの得物を持ってきたッス」
バケツを被った骸骨が、一本の鉄パイプを差し出す。少し凹んだ、可愛げのない鈍器だ。
彩は躊躇うことなく受取り、握り締めた。
「またこれを使う羽目になるなんてね」
軽く振り回して加減を見る。空気を斬る鋭い音。フェティやツヅリとトレーニングに明け暮れた日々を思い出す。あの日から随分経ったけれど、まだ鈍っていないようだ。
「それじゃちょっと暴れてきますか」
親友を追い、走り出す。
戦いへと身を投じるために。
二人の日々を取り戻すために。
―― for new player.
「ここが芝大――」
君はとある大学の正門の前に立っている。
手には古びた洋封筒。とある場所で見つけた招待状だ。
招待状にはこの大学の名前と日時が記されている。
今、大学の上空には暗雲が集まり始めている。
君は構内に足を踏み入れてもいいし、そのまま立ち去ってもいい。
君は不思議な遺跡島で過ごした記憶があるかもしれないし、ないかもしれない。
構内にいる何人かは知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
ただし、今の君はただの人間である。
構内に立ち入る際には十分に気をつけたまえ。
幸運を祈る。
ENo.67 エレニア・メイヴァル
ENo.600 フェンネル・ロックハート
ENo.650 式村 彩
(ENo.順、敬称略)
(以上の方お借りしました。ありがとうございました。)