高校生コミュ夏合宿・1時限目
夏は受験の天王山。
誰が言い出したのか知らないが、まったくその通りだと思う。たしかに猛暑に打ち勝つだけの精神力さえあれば、試験問題を前にしたプレッシャーにも耐えられる。
だからこそ、この季節は勉強に勤しむべきはずなのだが。
「こんなことしてていいのかなぁ……」
受験生、蒼凪零は自宅でもなく学校でもなく予備校でもなく、海にいた。
「何ぼやいてんの」
そう声をかけたのは式村彩。蒼凪のクラスメイトである。
「だって、受験生なのにこんな思いっきり遊んでていいのかなぁって」
「そんな格好で言っても説得力ないよ」
彩は手にした棒アイスで零を指す。半分になったソーダアイスは暑さに溶けかけていた。
「う……ゴメンナサイ」
しょげつつ零は持っていたスイカで顔を隠した。隠したけれど、ほとんど皮だけになったそれでは大して用も成さない。そう、スイカである。くし型に切られたスイカはよく熟れた大玉だったと見える。瑞々しい赤い実は、炎天下にいた喉にはご馳走だった。
零は手の甲で額の汗を拭い、目の前の光景を眺める。
抜けるような青空の下、弧を描く海岸線。小高い丘と岩場に挟まれた白い砂浜の向こうには、コバルトブルーの水面がどこまでも続く。人工物は何一つない、自然そのままの姿の海だ。
間違っても受験生がいていいところではないが、決して遊びに来ているわけでもなかった。
今日明日は高校の夏合宿。勉強が主目的である。
しかし、この環境は魅力的すぎた。陽光を受けて輝く海、美しい砂浜。
初日午前は自由時間に充てられていたが、真面目に勉強するのももったいない。遊びたい年頃がおとなしくしているはずもなく、合宿所に荷物を置くのもそこそこに、銘々水着に着替えて海に繰り出した。
もちろん零と彩も例外ではない。小一時間ほど泳いだ後、彩と零は浜辺に立てられたパラソルの下で休憩をとっていた。
「じゃあまた泳ぎに行こうか」
彩が立ち上がり、大きく伸びをする。彼女はセパレートタイプの水着、零は紺色のスクール水着という姿だ。
「ちょっと待ってー」
慌てて零もスイカの残り一口を食べ、後を追う。
勉強のことなどもう頭にはなかった。
◆
「いいですねー、いいですねー」
海辺で水飛沫を上げる二人を目で追いつつ、ぽそりと呟いたのは耳の先が長い少年。彼はいわゆるエルフと呼ばれている長命の種族だった。エルフは総じて細身なのだが、この少年はしっかりとした体格をしている。そこそこに上背もあり、大人なのかと顔を見れば、彩や零たちに比してまだまだ幼い。
その童顔、心なしか鼻の下が伸びていた。
「何か言うた?」
耳ざとく聞きつけたのは少年と向かい合っている少女だ。艶のある黒髪とビキニの水着という姿は大人びているように見えるが、瞳にはまだあどけなさを残している。
少年の名はエゼ=クロフィールド。少女の名はクユリ=イヅルギ。
二人の間には建築中の砂の城があった。これが砂山を固めただけの四角い城ならばかわいいものだが、物見塔やら鐘楼やら跳ね橋つきの門やらと、砂でできているとは思えないほどにディテールに凝っている。
「いえ、何も」
エゼはとぼけて青い空を見上げた。
「いいですねー。青い海! 白い雲!」
手にしたスコップで小さな山を叩き固める。
「それ、城壁にしてや。うちのとくっつけて万里の長城にしよ」
クユリの指示に、はいはいとエゼは生返事をする。彼は高校生ではない。クユリによりこの合宿に引きずられてきたのだ。勉強合宿に自分が混ざっていいものだろうかと思ったものの、いざ来てみれば生徒たちは勉強なんてなんのその、全力で遊んでる。
エゼも最初は雑用をしていたのだが、気が付けばこうしてクユリの城作成を手伝わされていた。こんな子供っぽい遊び、という文句も当初はあったが、ビキニ姿のクユリを間近で見られるということに気付いてからは一切ぼやいていない。
「クユリさん、この城完成したらどうするんです?」
エゼは着々とできあがっていく砂の城を指差しながら聞いた。思いつくものを片っ端からつくっているため、アントニオ・ガウディも真っ青の前衛芸術系建築物と化している。
「全力で壊す」
満面の笑みともにそんな言葉が返ってきた。
◆
エゼ少年が空を見上げたちょうどその頃、フェンネル・ロックハートも合宿所である丸太小屋のそばで空を見上げていた。
手でひさしを作るものの、灼熱の太陽は容赦のない熱線を浴びせてくる。
「今日も暑いなぁ」
色白で背が高い青年とくれば美形と相場が決まっているものだが、今日の彼は美形とは言い難い姿をしていた。
顔にべったりと施されたフェイスペイント。それもスイカ柄。
つい先刻、スイカ割をしていた際になぜか砂に埋められスイカ役をさせられてしまった。その名残である。
頬を伝う汗も緑色。身体にまで流れ、白いシャツに緑色の染みができている。
「熱中症とか大丈夫かな」
合宿所である丸太小屋の外でゴミをまとめつつ、海辺で遊ぶ少年少女を見遣る。
「心配するこたねェ。イヅルギとかいう娘が医者連れてきてんだ。いざとなったらそいつがなんとかするだろ」
応えたのはフェンネルよりも体格のいい青年だ。柔和な顔立ちのフェンネルと異なり、こちらは随分といかめしい面構えをしている。彼は式村醍。その苗字が示すように、式村彩の縁者である。鍛え上げられた肉体はスポーツ選手か歴戦の勇士のようであるが、彼の職業は高校教師。高校の合宿なのに教師が少ないという話を聞き、急遽この合宿に参加となった。
醍は丸太小屋の縁側に座り、雑用に勤しむフェンネルの様子を眺めていた。引率として来たものの、高校生たちはまだ勉強を始める様子もなく、かといって少年少女に混ざって遊ぶわけにもいかず、手持ち無沙汰だったのだ。
醍は傍らに置かれたグラスの中身を飲み干す。空いたグラスにすかさず麦茶が注がれる。顔を上げると、自分に負けず劣らずいかつい顔と目があった。いかつい顔の少年――結城仁義は丸太小屋周辺の草むしりを終えて休憩していたところだった。彼は麦茶を注ぐだけでなく、醍のグラスに氷も追加してくれる。強面の外見にそぐわず、気の利く男である。
その顔をじっと見詰めながら、なんだかなーと醍は心の中で呟いた。一際体格のいい男どもが集まっているというだけで、気温が三度上昇したような錯覚を覚える。
ありがとよ、と言ってまた麦茶を一口飲む。そして思い出したかのように、
「あのよ、顔洗ってきたほうがいいんじゃないか?」
「え? なんでですか?」
醍の指摘にフェンネルは首をかしげる。可哀想なことに、彼は自分の顔に施されたメイクに気付いていなかった。
◆
ひやりとした水流に桜庭撫子は身を震わせた。暑い暑いと思っていたが、時折冷たい水が腰の辺りを触る。ちょうど潮目にいるのかもしれない。足を取られないようにしないと、と足裏で海底の砂を探る。浅瀬にいるためそれほど深くはないが、水面は腰の高さまであった。
「ナコちゃん、どうしたの?」
撫子が手にしている小さな手が彼女に問いかけた。手の持ち主は韮川百合子。よくて中学生、下手すると小学生にしか見えない幼い容姿であるが、彼女も立派な合宿参加者。つまりは高校生である。
「ううん、なんでもない」
今、撫子は韮川に泳ぎを教えていた。韮川は学業の合間にアルバイトをしているという感心な少女である。この夏は泳げるようになることが目標と言っていたが、あまりにも仕事が忙しいために水泳の練習をする暇もなかったようだ。
なので、この機会を使って練習に勤しんでいるのだが――
先刻から撫子は手を引いているだけ、韮川はバタ足をしているだけ。教えてもらっているというよりも、仲のいい姉妹が遊んでいるようにしか見えない。
そんな二人の様子を離れたところから眺めている少年がいた。名はアーサー・バーナード・クラーク・ダグラス。フルネームが長いため、親しい者はアーサーと呼んでいる。
彼は海に着いた時から岩の上に陣取り、釣竿を構えていた。傍らの魚篭の中は未だ空のまま。太公望はのんびりと魚を待つ。
獣人であるアーサーには犬の尾が生えており、尻尾の先にも糸を括り付けて穏やかな波間に垂らしている。豊かな毛の尾が時折揺れ、魚を餌へと誘う。
青い海。白い雲。降り注ぐ陽光。麦わら帽子をかぶって気の済むまで釣り糸を垂らす。最高の贅沢、まさしく極上のバカンスだ。
そう、彼もまたこれが合宿であることを忘れかけていた。
岩礁の上で足をぶらつかせながら、目を細めてのほほんと遠くの海を眺める。顔の横から生える犬耳は平らに伏せっていた。
「きゃ!」
少女の声に、海面に目を戻す。撫子に手を引かれて泳いでいた韮川の背に何かが張りついていた。
よく見ると、子供ほどの頭に無数の触手を持った生物のようである。肌色なのかと思ったが、それは色のない身が韮川の肌を透かしているだけだった。
振り落とそうと韮川と撫子がそれの頭を掴もうと指を伸ばすが、柔らかに形を崩すばかりで一向に捕らえられない。
見れば、似たような物が水面に頭を出し、韮川たちの周りを取り囲んでいた。
「桜庭さん、韮川さん、逃げて!」
釣竿を放り出してアーサーが叫ぶ。一枚布のようだった真っ青な空に不吉な黒い雲が現れた。それはあっという間に空を覆い、渦巻きだす。宝石色の海面が暗色に濁る。
アーサーの眼前で海が割れた。
透明なゼラチン質の体。
極太の触手。
巨大な禿頭。
韮川に取り付いていたものに比べればずっと大きい。一山ほどもある。体が透明なので一見海に穴が空いたかのように思えるが、目を凝らせば暗い水中に薄ピンクの臓器が見える。
そういえば、合宿の栞に書いてあったではないか。
――海岸には複数名で向かうこと。夜の海は危険。
――海生生物に襲撃された場合は引率へ報告し
――速やかに駆除すること。
そしてよく言われることだが。
――お盆の後はクラゲが多い。
◆
方々で悲鳴があがる。平和な自由時間から一転、恐怖渦巻く黒い海を眺める二つの背中があった。
「梶井君落ち着いてるね」
「式村もな」
級長の梶井玲人と、先程まで零と遊んでいた式村彩である。
「まーね。こんな島で遺跡探索してたら、化け物なんて見慣れちゃうよ」
彼女たちは高校生という身の上ながら、普段は遺跡探索をしている冒険者でもある。歩く人型植物やら腐乱したゾンビやらといった遺跡に住まうモンスターとの小競り合いが日常茶飯事となっていた。
「……そうでない奴もいるようだけど」
溜息吐きつつ梶井は顎をしゃくった。その先では零が黄色い悲鳴をあげて騒いでいる。よくよく見れば、どさくさにまぎれて近くにいた上四万十川を抱き締めていた。
「やっぱり零って上四万十川さんのこと好きなのかな」
む、と眉根を寄せる彩。
「マスコット的な意味で好きなんだと思うよ」
梶井が即答する。この上四万十川という少年、身分証上はたしかに日本国籍の日本人なのだが、どうにも犬かウサギの類にしか見えない。その愛らしい姿を前にすれば、抱き締めたい衝動が抑えられないのもわからなくはない。
「――それはともかく、どうにかこの場を収めないと。桝廉、イヅルギのお兄さん呼んできてくれ」
「は、はい!」
梶井の言葉に従い、おとなしげな少女は小走りに小屋のほうに戻る。後を追うように式村も走り出した。
「私も醍にーさんとフェンネルさん呼んでくる」
「頼む。俺は少し場を収め――」
と、梶井が言いかけたところで、
「ああ! 上四万十川さん!!」
零の絶叫が響き渡る。見れば、上四万十川が透明な触手に絡め取られていた。ぐるりと胴を捕らえる腕を叩いて抵抗を示すが、ぶよぶよとたわむばかりでダメージにはなっていない。
「まったく、まずいことになったな」
梶井はうろたえる零に駆け寄り、肩に手をかけた。その背が緊張に強張ったようだが気にしている暇はない。
「蒼凪。お前も水霊使えただろ、力を貸せ」
「え、でもどうやって……」
返ってきたのは気弱な声に気弱な顔。これではそこらの女子と同じじゃないか。
「普段魔術を使うのと同じく集中しろ。後は俺が誘導する」
目の前でパン、と手を打ち鳴らす。それだけで気持ちが切り替わる。
拍手の音に零の意識が切り替わった。齢十八歳。大人というにはまだ足りず、子供と断言するには成長しすぎている年頃。
高校生と駆け出し精霊使いを兼業する少女は、少しばかり他の女子高生とは境遇が違いすぎた。それはこの合宿に参加している皆も同じであるが、高校生でありながら、彼女たちは遺跡の探索も勤しむ冒険者だ。化物相手に生きるか死ぬかの死闘を繰り広げることも珍しくない。
闘争本能と生存本能が共存する。戦うことを余儀なくされれば嫌でも意識は”そっちのモード”にスイッチする。
眼前の巨大生物。
絡め取られた級友。
――ああ、そうだ。戦わなきゃ。
昂ぶっていた鼓動が収まっていく。見苦しくもうろたえていた、ただの女子高生は消える。
零は短く息を吐いて呼吸を整えた。西洋東洋関係なく、呼吸は全ての魔術の基本。フラットな精神状態から生まれてくる力が魔術の源だ。
「梶井君」
頷いて見せ、そして頼もしき我らが級長の目を見た。梶井の瞳が少しだけ青みがかっている。それは古代から存在する万年氷河の青。凝縮された冷たい光。
視線を合わせただけで梶井の中に水の精霊の息吹を感じる。
同調とは相手と自分の波長を合わせることである。熟達した魔術師同士ならばどれだけ距離をおいていても同調できるという。しかし、零と梶井は熟達した魔術師ではない。梶井に至っては魔術師ですらない。二人が同調するには物理的な接触が必要だった。
差し伸べられた手に零は躊躇う。学校生活という日常で話すことにはある程度慣れたものの、本来零は男性を苦手としている。手を繋ぐなど言語道断。顔を真っ赤にして逃げ出したい衝動に駆られる。
だが、そんなわがままを許される状況でもない。そのくらいの分別はつく。
恐る恐る指先を梶井の掌に載せた。わずかに触れる掌には熱がなかった。
梶井君は人間のはずなのに。
温かい血が通う肉体にあるべき体温がない。精霊使いは人ではないモノと契約し、何かを通い合わせることで人知では成しえない現象を起こす。零もひよっこと言えど精霊使いの端くれである。この違和感に気付かないはずはない。
少年の姿をした容れ物には、人の希薄な生命力と、人とは異なる生命力が混在していた。そして今は人ではなく、人とは異なる部分が大きすぎた。
人との同調ではない。まるで、精霊との同調。
零の波長が梶井の波長と重なる。揺れる波形が同じ型を取ったその時、零はにわかに戦慄を覚えた。
梶井の中にある精霊の部分はとんでもなく貪欲だった。これは正確には同調ではない。一方的な搾取だ。例えるなら食餌、外部からの栄養摂取というところか。指先を通じ、体温とともに自分の中の何かが吸い上げられていく。
視覚がダウンした。
突然目が見えなくなったことにはいささか動揺したが、零は自棄になって目蓋を閉じた。目に映るものに惑わされないのはこれ幸い。今、集中しなければ梶井に全て持っていかれそうだ。
梶井の波長は心臓が凍るほどに冷たく、暗い。幾度も意識が闇へと持っていかれそうになるが、零は歯を食いしばった。零一人分丸ごと吸収しても満たされないであろう底無しの何かがそこにある。
こんな物を飲み込んでいたのか。
今更ながら、クラスメイトの恐ろしさを知る。
詠唱は短く。
収束は単純に。
解放は一息で。
明滅する目蓋裏を見つめながら、父から教わった手順を正しく辿る。零は吹雪のを呼ぶ理を唱えた。言葉など何でもいい。詠唱はただ意識を集中するだけの手段にすぎない。梶井が何をしようとしているのかわからないが、そちらへ力を流してやればいいだけのことだ。
「やりすぎた……」
梶井が呟くのが聞こえた。恐る恐る目を開けた。零と梶井を繋いでいたラインはすでに途切れており、視覚は回復していた。
黒一色だった世界から一転、零の視界は白く染め上げられていた。
「うわ……」
感嘆のような声が漏れる。辺りは氷の平原と化していた。それこそ巨大クラゲの周囲半径五十メートルは当然のこと、浜辺の自分たちの足元に至るまで凝固している。
おそらく、ほんの少しだけ動きを止める意図だったのだろう。なのに、梶井の中の何かはその程度では許さず、周囲一帯を冬へと変えてしまった。水着姿の零は身震いする。視界の片隅で、韮川がタオルを羽織っているのが見えた。
ともかく目的は果たした。氷海の中で触手をもたげたまま、巨大生物は硬直している。もちろん上四万十川を絡め取る腕も凍り付いているが、器用にも上四万十川本人は氷の外。人に似ても似つかない少年は助けを求め、懸命に手足を動かしている。
「式村、今だ!」
梶井の鋭い声が飛ぶ。
「おっけー、いっくよー」
彩が巨大クラゲの側まで走り寄っていた。水着を着用し、愛用の鉄パイプをひっ下げた姿はどこぞのやさぐれ不良少女にしか見えないが、怖いので誰も言わない。
「今日のご飯は中華クラゲー」
気の抜けた声ながら、滑るように凍りついた海面を走って勢いをつける。踏み込んで飛び上がり、見せつけたのはフィギュアスケートさながらの三回転半(トリプルアクセル)。振りかぶった鉄パイプに遠心力がかかる。
最後の回転、最も重さが載った一撃が、鈍い音とともに禿頭にお見舞いされる。
「――っと、うわ、かったいなー」
しかし、凍ったクラゲの頭は彩の渾身の一撃を跳ね返した。想定外のことに驚きは隠せないが、このままでは落下してしまう。反動を利用して空中で体を捻り海上に着地。体操選手張りの華麗な着地を見せられればよいのだが、生憎と下は凍った海面。足を滑らせ、彩は尻餅をついた。水着の尻に氷は冷たすぎて、「ひゃう」と変な悲鳴をあげる。
両手指の先から骨を伝い、電撃のような痺れが広がっていた。カラリと乾いた音を立てて鉄パイプが氷上に転がる。
巨大生物を閉じ込める檻は、小娘一人の力で割れてくれるほど生易しい物ではなかった。
「梶井君たら、容赦ないんだからー」
尻をさすりつつ、浮かれた女子高生声で浜辺にいる術者に不平を垂れる。口調とは裏腹に顔はいたって真顔。
「甘いね。殴るならこうやるんだよ♪」
軽い声が彩の頭上を通り過ぎていった。彩に遅れること数瞬、出来る男の余裕かハッタリか、微笑すら浮かべたフェンネルが座り込む彩の傍らを駆け抜ける。手に携えるはエッジが利いた大きな斧。もっとも、その顔面はスイカメイクのままなので、締まらないことこの上ない。
「俺も混ぜろォ!」
次いで暑苦しく野太い男の声。彩に面影が似た青年がフェンネルを上回る勢いで走り寄る。長い長い声がドップラー効果で彩に近付いてきて、離れていった。
こちらはハンマーを下段に構えている。ご家庭用とかそんな生温い物ではない。釘なんかよりも何百倍何千倍も大きい物を打ちのめす目的であつらえられた、特大の鉄塊だ。
階段を駆け登るがごとく軽やかなステップでクラゲの禿頭を踏みつけ、頭上へと舞い上がる二つの影。狙うは脳天ど真ん中。
雄叫びとともに二つの鈍器が振り下ろされた。
地響きのような重低音ともに、海面に向けて一直線にヒビが走る。割れ欠けた氷の下で、透けて見えるクラゲの臓物が震えた。体積のほとんどが水で構成されているクラゲであるが、体内の最奥にある臓物までは凍り付いていなかったようだ。
本体が揺れれば当然ながら触手も揺れる。氷柱の天辺に囚われたままの上四万十川が悲鳴を上げた。
クラゲを打ち据えた二人はその頭上に降り立っていたが、再び跳躍した。空を切る音に反射的に身体が動いていた。
二人がいた足元、表面の割れ目にどこからともなく飛来した矢が一本、突き立った。矢が射抜いた場所から蜘蛛の巣状にヒビが広がる。
浜辺からその様子を見ていた梶井が振り返ると、小高い丘の上に弓を構えたエゼ少年がいた。
少年はまた一本、矢をつがえ、放つ。並のハンターがようやく構えられるか否かというほどの時間で、射までの動作を終えている。とんでもない速さで繰り出される五月雨の矢がクラゲを襲う。
「楽しい合宿に水を注す野暮な輩は退散願います。――まだ雪白さんの水着姿見てないのに」
そんな少年の呟きは、当の雪白という少女はもちろん、誰の耳にも届いていなかった。
間断なき矢の猛攻の間、氷山から降りた二人は人命救助に取りかかる。醍は木こりよろしくハンマーを氷柱の根元に叩きつける。骨という芯がない氷柱はあっさりと真っ二つに折れた。氷に包まれたゼリーという断面は、おいしそうな氷菓に見える。
「わーーー」
落ちてきた上四万十川をフェンネルが長い腕で受け止めた。すっかり冷えた身体に、どこから取り出したのかタオルをかけてやっている。
「後はよろしくね」
フェンネルは上四万十川を彩に託す。
「はいはい」
もはや自分の出番はないと見たか、彩は上四万十川を連れて浜辺へ戻って行った。振り向けばクラゲの頭に幾本もの矢が生えていた。申し訳程度の髪の毛に見えないこともない辺りが、緊張感のない笑いを誘う。
剛弓による射撃の嵐が収まったのを見計らい、醍とフェンネルは崩れる寸前の氷塊に駆け上がった。各々の得物を振りかざす。狙うは蜘蛛の巣状に張ったヒビ。轟音とともにそこにさらに追い討ちをかける。
むべなるかな。周囲に散らばる小クラゲも巻き込んで、あえなく氷クラゲは千々に砕け散った。
「一丁あがりィ!」
チンピラにしか見えない高校教師とスイカ顔面の美青年が、意気揚揚と互いの空いた手を打ち鳴らす。
黒い雲間から太陽が顔を覗かせ、再び爽やかな青空が戻ってきた。
◆
「怪我した奴おらんかー」
『救護係』という腕章を付けた青年が、薬箱を抱えてやってきた。クユリの兄、アヤである。左目に眼帯をつけたスーツ姿はまったく海にはそぐわないが、本人も意に介した様子はない。
「刺された奴は手ぇあげろー。早く処置しないと跡残るでー」
妹のクユリに引っ張ってこられたからと、何もしないでいるわけにもいかない。彼は己の本職を全うすべく、方々に声をかけて回る。
そこにバスタオルを羽織った韮川が一生懸命手を振った。
「刺されてないけど、一応見てくださーい」
「僕も僕もー」
韮川とともに上四万十川も手を挙げる。凍っていた毛はすっかり解け、ぺっとりと貼りついている。
浜辺で倒れている零もいたが、こちらは男性に触れたことによる極度の緊張からきた気絶なので気に留めるほどのことでもない。体格のいい結城が恐る恐る抱え上げ、丸太小屋まで運んでいく。目を醒ました後に運ばれた事実を聞けばまた気絶しかねないが。
「あ、あの、式村さん、大丈夫?」
アヤを連れてきた枡錬が心配げに彩に声をかけた。
「おかげさまで」
彩は乱れた髪を梳き、ピンで止め直す。穏やかな海には先ほどまでの緊迫感は微塵もない。人がいない静寂なプライベートビーチが戻っていた。
「なんであんなのいるんだろう。前に来たときはいなかったよね」
彩が言う「前」とはほんの数週前、それこそ遊ぶために来たときのことだ。
「その時に坂爪先生が生物兵器でも廃棄したとか変な薬品流したとか」
「……それ、笑えない」
やれやれと溜息をつくと同時に、嗜虐的な笑顔で眼鏡の男を思い浮かべる。担任である坂爪は元々なんの研究者だっただろうか。絵に描いたようなマッドサイエンティストなのだから、そのくらいやってもおかしくはない。
本来ならば引率として合宿に来るべきである担任は、夏休みを宣言した後、どこかへ姿をくらませてしまった。あの破天荒な担任のことだ。ビヤホールで昼間からビールでも煽っているかもしれない。
トン、と肩に鉄パイプを担ぎ、彩は再び遊び始めた高校生たちを眺めた。今度は皆で風雲クユリ城の建設に取りかかっている。泳ぎの練習に飽きたらしい韮川や撫子、誰かに引っ張り出された結城も混ざっている。
当然ながら、城のコンセプトなんてどこへやら。シュヴァルの理想宮も真っ青の混沌城が出来上がりつつある。
「……もう一本アイスもらってこよ」
合宿はまだまだ続く。
ENo.92 アーサー・バーナード・クラーク・ダグラス
ENo.164 梶井 玲人
ENo.220 韮川 百合子
ENo.256 エゼ=クロフィールド
ENo.272 桝廉 深沙希
ENo.561 上四万十川 蓮
ENo.600 フェンネル・ロックハート
ENo.650 式村 彩
ENo.872 桜庭撫子
ENo.947 クユリ=イヅルギ
ENo.1433 結城 仁義
ENo.1801 佐藤 雪白
(ENo.順、敬称略)
(レンタル宣言非参加の方、勝手にお借りして申し訳ない!)