高校生コミュ夏合宿・2時限目
――島ではない何処か。
「おい、エレニア」
店に入ってくるや否や、青髪の青年は挨拶も抜きにエルフの女性を呼び付けた。どこか慌てた様子で、何故か肉と書かれた額に汗が浮かんでいる。
「どうしました?」
対してエルフの女性は優雅にティーカップを傾ける。折しも時はアフタヌーンティー。店内は会話に花咲かせる人々で満ちていた。
青年はエレニアと呼んだ女性の向かいの席に座り、一枚の紙をテーブルに広げた。
「壱哉がいなくなった」
「ほう?」
エレニアは読んでいた本を閉じ、卓上の紙に目を走らせた。書き損じらしい冒険者登録用紙の裏に、東洋の文字が並んでいる。この辺りでは使われない複雑な文字である。
「どこにもいねぇんだ。あいつの宿には代わりにこれがあった。お前なら読めんだろ」
「まあ、身内に日本人いるから読めますけどね」
エプロンドレスのウェイトレスが注文を取りにきたが、青年は片手で追い払う。
「あいつどこ行ったんだ?」
焦りが隠せない青年とは対照的に、エレニアは涼しい顔で置き手紙を読む。
「……本当に行っちゃったんだ。あっちで会えそうですね」
「は? なんか言った?」
ほくそ笑む彼女の呟きは、人々のお喋りに埋もれて青年の耳には届かなかった。
* * *
高校生たちの合宿一日目の午後は勉強時間に充てられていた。
合宿所は元々それ用に作られたものではない。流木から作られた長机がいくつか置いてあるが、黒板や教壇のような授業を行う設備はなかった。漣が聞こえ、潮風が香る。穏やかな風に揺られ、ちりんと風鈴が鳴る。
いつもとは違う雰囲気に浮かれないわけではないが、生徒たちは格好だけでも机に向かい、ペンを握っていた。
今、教壇代わりの小机にいるのは、学校よりも建築現場のほうが似合いそうな筋骨隆々の青年である。これで専門教科は体育ではないという。青年、式村醍は肘をつきつつ窓の外を眺めていた。
窓の外、陽の光の下には薄い布団が幾枚も並んでいる。物干し近くの木陰では、誰かが採ってきた海藻が干されていた。布団と海藻という取り合わせは特に目新しいものでもないが、彼の視線はその向こう。海藻の向こうの影に醍は目を細める。
「お前らしっかり勉強しとけよー。俺は――ちょっとあいつら捕まえてくる!」
言うが早いが青年教師は外に飛び出した。青年より先を行くはエルフの少年と長身の青年――エゼとフェンネルの二人組である。二人はすたこら林の奥へと走っていく。
「待てやお前らァー!」
醍は構えた両手指の股に白墨を挟んでいる。
「教師舐めんなよ、喰らえッ!」
剛腕から射出される弾丸のごとき白墨。だがここは木々生い茂る防風林だ。何本かは松の木々に阻まれ、幹に白い穴を穿つ。
「そんなチョーク、恐くないで――」
振り返りつつそう言ったエゼ少年の目の前で、古木が倒れた。不格好な切株の向こうで式村醍が不敵に笑う。どこから出したのか、両手には再び白墨が握られている。
「速度を乗せれば、チョークでもインパクト時の加圧を銃弾並にできる。物理の基本だ。覚えとけよオラ!」
「「そんな実技いりません!」」
エゼとフェンネルの声が見事に調和する。だが、声が合宿所に届く前に昏倒したので生徒たちの知るところではない。
「みんな元気やなぁ〜」
一方、合宿所に残っていたもう一人の教師はそんな気の抜けた台詞を吐いていた。
「はいはい、あいつらは醍センセーに任しといて、俺らは勉強しよな」
眼帯の青年――クユリの兄、アヤ=イヅルギはパンパンと手を叩く。
「わからんとこあったら聞いてな。暑さで気分悪ぅなっても言えよ。特に竜胆」
ぴしっと指差した先では、色白で線の細い少年が水を飲んでいる。少年は額に濡れタオルを載せ、どこか焦点が定まらない目で頷いた。
そんな部屋の片隅で、蒼凪零は欠伸を噛み殺して机に向き直る。得意なはずの数学の問題も、今は難解な古典文章で内容がはっきりと読み取れない。茫洋とした眠気が脳内いっぱいに巣を張っている。持参したブラックガムもとうに底をついていた。
『ブラックキャンディない?』
そう書いて式村彩に回した手紙は、
『ごめん。甘いのしかない』
レモンキャンディー付で返ってきた。
泳いだ後の昼下がり。けだるい疲れが身体を包み、いっそ 早く楽にしてくれと叫びたくなるくらい、眠い。
午前いっぱい海で遊び、午後からは机を並べてお勉強。勉強合宿なのだから勉強するのは当たり前なのだけれど、眠すぎて集中できない。視点が一点に定まらず、積み重ねた赤本が前衛的なオブジェに見える。
右隣の机では韮川が体をくの字に折って、齧りつくようにドリルに取り組んでいた。
今日の彼女は珍しくジャージではなかった。ホルターネックのワンピースは背中が全開、滑らかなカーブを描く。きめ細かな肌がほんの少しだけ赤くなっているのは、午前中、海魔に張り付かれたからだろう。幸いなことに吸い付かれたくらいで刺されてはいなかったようだ。
――ニラ子ちゃんも頑張ってるんだから私も、
零がそう思い直そうとしたところで気付いた。うなだれているため、垂れた髪でわかりにくいが、実に幸せそうな顔で夢の世界に行っている。
午前にたっぷりと泳ぎの練習をしていたのだから当然といえば当然のこと。
私ももう寝ちゃおうかなぁ。
脳内に棲む本能という名のもう一人の自分は速やかな入眠を主張している。
――梶井君も難しい顔して寝ちゃってる……
室内をよくよく見れば、多かれ少なかれ船を漕いでいる。生徒たちを見回っているアヤも目蓋が重そうだ。窓辺に近い席の黒騎だけは、涼しい顔で勤勉に手を動かしている。彼が優等生なのは、こういった地道な努力を積み重ねているからだ。
書いていた三次関数のグラフが四次関数になり、ついには紙上から飛び出して立体化してきた。
――もう寝ちゃおう。そうしよう。
朦朧とした意識を飛ばし、シャープペンシルが指を離れかけたその時、
「ゼロさんゼロさん」
ツン、と脇腹をつつかれた。
「!?」
椅子の上で跳ね上がりつつも、飛び出しそうになった妙な悲鳴だけは飲み込んだ。
「蒼凪ー、どしたん?」
「な、なんでもありませんっ」
なら静かにしときー、と教師は手にしていた教科書に目を戻す。
『どうしたの?』
零はノートの切れ端にそう書いて左隣――脇腹をつっついてきた佐藤雪白に渡した。
『気にならん?』
すぐ帰ってきた紙には女の子っぽい丸文字でそう一言書いてあった。
なんのこと? と視線を向けると、あれ、と雪白が零の前方を指差した。零の前の席は上四万十川がいる。前方と言えば上四万十川の背中しかない。
犬にも似た柔らかそうな頭が右に左に揺れている。抱きしめたらお日さまの匂いがしそうだなぁなどと考えると心がほんわかしてくる。人間には見えない、動物マスコットのような姿に最初は戸惑いもあったものの、今ではすっかり日常に溶け込んでいた。
だからなんら不思議なこともないのだが。
『あれ』と雪白は声に出さず唇だけを動かして言ってくる。
何だろうと上四万十川の背中を見つめる。
――あ。
見つけた。
それとも気付いてしまったと言うべきか。
上四万十川のシャツの襟首から覗いて見える小さな金具――ほとんど襟の中に隠れてしまっているためわかりづらいが、確かに細長い金属が毛の中に埋もれている。
『あれって、あれ?』
零は雪白に紙を回す。
『うん、ファスナー』
上四万十川の首筋にファスナー。最近は変わった形のピアスやアクセサリーも多いが、そんなものを首筋につけるなんて相当の変わり者だ。
眠気なんて一気に吹っ飛んだ。ついでに解いていた数学の問題も吹っ飛んだ。零はじんわりと背中に冷たい汗を滲ませながら、ファスナーから目を離せないでいた。
――上四万十川さんの背中にファスナー。上四万十川さんの背中にファスナー。
ぐるぐると零の思考が回る。
あのファスナーはなんだろう。ファスナーがついているということは、それはつまり。
『中の人おるんかな』
雪白から別の紙が飛んできた。
――中の人。
それはつまり上四万十川の中の人。
おかしいと思っていたのだ。立派に日本国籍を持っているのに、どう見ても犬と兎の合いの子のような愛らしい外見。二足歩行もすれば日本語も話すけれど、霊長類とはかけ離れた姿。
それもこれも、中の人がいれば、と考えれば納得できないこともない。
しかし、それでも払拭できない謎はある。
『人が入ってるにしては小さいよ?』
零は雪白に紙を投げた。
そう、上四万十川の全長は140cmあまり。耳の部分を除けば130cmを下回る。あのサイズのぬいぐるみに入るのは小学校低学年の子供くらいのものだろう。しかし上四万十川の言動はどう考えても義務教育を終えた学生のそれである。幼い子供にあれほどの知能があればまず間違いなく神童ともてはやされる。
――あ、もしかして飛び級で入った天才とか。
そんな仮説も浮かんだものの、零はすぐに捨て去った。以前見せてもらったIDカードは確かに15歳と示していたのだから。
謎が謎を呼ぶ。
ツン、とまた脇腹を突かれた。見ると雪白が拳を上から下に下げるジェスチャーを繰り返している。
下げてみたくない?
雪白は、真後ろの零に引っ張り下げろと言っている。
下げてみたくないと言ったら嘘になる。存在自体が謎である上四万十川の中身が気にならないわけではない。
だけどそんなことをしていいものなのだろうか。プライバシーの侵害とかそれ以前のものがありそうな気がする。
どうしたものかとファスナーを睨みつける。零は魔術は使えるものの、生憎とサイコキネシスなんて超能力は持っていない。念じたところでファスナーが勝手に下がってくれるはずもない。
だが、何やら感じる物はあったのだろう。それまでぼんやりと左右に揺れていた上四万十川が小さく身じろぎし、首の後ろを軽く掻いた。
――あ。
零と雪白は、口をぽかんと開けたまま固まった。
上四万十川の手がファスナーに触れ、わずかに下がったのだ。
毛皮と毛皮の間に暗い空間が見える。そこから何か覗けないかと、零たちは椅子の上で精一杯伸びたり縮んだりして視点を変えてみる。しかし努力空しく、それ以上は中身が見えない。
しかし少女たちの好奇心がその程度で萎むはずもない。
零は雪白に向かって力強く頷いた。手にはシャープペンシル。雪白もそれに応え、頷き返す。
そっと身を乗り出す。ギリギリのところでシャープペンシルの尻を持ち、先端を上四万十川の背中に近づけていく。
――あと少し。あと少し!
金属の先端がファスナーのスライダーに当たる。後は引っかけて下げるだけだ。
そこで視線がぶつかった。
雪白とではない。上四万十川とでもない。
ファスナーの隙間から覗き見る――目。
猫のように縦長に絞られた黒い瞳孔、長く豊かな睫毛。厚ぼったい目蓋にはしわが寄っているが、肉が垂れるほどには歳老いていない。血走った白目はわずかに黄色に濁っている。
それが一分あたり何十回という速さで瞬きを繰り返す。
総毛立つ。常軌を逸した光景に思考は停止、網膜は瞬きする目玉を脳内写しとったまでで、脳の表面を走る電気信号は感情を司る部分にまで届かない。
視線を外せない。瞳は汚泥の色を湛えて零を見据えている。
雪白も見てしまったのだろうか。彼女のところからも見えないことはないはずだ。
時間の感覚などとうに麻痺していた。見つめあっていた時間は数秒にも何時間にも感じた。
突然目玉がファスナーの奥に引っ込んだ。
ようやく金縛りから開放された零は大きく息をつき、雪白のほうへ顔を向けた。
――見た?
声に出さずに聞く。
――見た。何あれ、めっちゃこわい。
雪白も声に出さず返してきた。すっかり青ざめた顔が、あれが零の幻視ではなかったことを物語っている。
零は両腕を抱いた。真夏の真昼の海辺のはずなのに寒い。歯の根が合わずにカチカチと鳴る。
『わすれよ』
隣から回ってきた紙には、震える字でそう書いてあった。
忘れよう。見なかったことにして勉強を再開しよう。
気を取り直してシャープペンシルを握る。開いているページは三次関数の基本的な問題だ。数分もあれば解ける。
そこでノートに目を移せば良かったのだが、零は上目遣いで――再び上四万十川の背を見た。
「――!!」
喉の奥が引きつる。
ファスナーは先程よりも開いていた。そしてそこから覗いていたのは目ではなく、血まみれの指。
爪が剥がれた、筋張った成年男子の手。
中指などは肉がこそげ落ちて白い骨が覗いている。
それは少しずつ少しずつファスナーを押し開き――
「――凪、蒼凪!」
赤い瞳に自分の顔が映りこんでいた。
「蒼凪、大丈夫か? 自分、うなされてんで?」
眼帯をつけた青年の顔が零の顔の間近にある。
「――い、や――キャーー!!」
快音が海の家に鳴り響いた。
「……すみませんでした」
「いや、こちらこそ驚かせてすまん。君の男嫌いは午前中で充分わかっていたはずやったけど。うん」
頬を腫らしたアヤに零は頭を下げ続ける。二人の間の距離二メートルは零の精一杯の譲歩である。
「居眠りするのは構へんけど、大人しゅうしといてくれ」
「……はい」
零はうなだれる。そこにアヤが非常に言いにくそうに、
「こっちも謝らなあかんしな」
そう小声で呟いた。何のことだろうときょとんとしていると、
「これ見て」
笑いを堪えている風の彩が手鏡を差し出してきた。よだれの跡でもついているのかと、素直に礼を言って受け取る。
「妹の代わりに謝っとくわ。すまん」
鏡に映った自分の顔。
鼻の下には、カイゼル髭。
「――!!? い、イヅルギさんー!!?」
女子にあるまじきカイゼル髭。ドイツ将校も真っ青の立派な髭が、顔の中で存在を主張している。
「アイブロウだからすぐ落ちるで。可愛いよー」
零の絶叫もよそに、悪びれなく無邪気に笑うクユリの姿があった。彼女は手にしたペンで今、眠りこける梶井の額に「皮」と書いているところだった。
「眉間にしわ寄せすぎ。書きにくいわぁ」
続々と被害者を増やしつつ、合宿はまだまだ続く。
ENo.164 梶井 玲人
ENo.220 韮川 百合子
ENo.256 エゼ=クロフィールド
ENo.398 黒騎知視
ENo.426 紅掛 竜胆
ENo.561 上四万十川 蓮
ENo.600 フェンネル・ロックハート
ENo.650 式村 彩
ENo.947 クユリ=イヅルギ
ENo.1801 佐藤 雪白
(ENo.順、敬称略)
(レンタル宣言非参加の方、引き続き勝手にお借りして申し訳ない!)