七夕の夜
――島ではない何処か。
今日は早く仕事が終わった。いつもなら常連となった店で一杯やっているところだが、この日ばかりは誰かに会いたかった。誰かに優しくしたい気分だった。家族でもいい。友達でもいい。数年来顔を見ていない古い友人に電話をしてもいいだろう。とにかく上司同僚以外と話したかった。そして今日の首尾を聞いてもらいたかった。
本当に誰でも良かった。それこそ社食のおばちゃんでも駅員でも果てはご近所のポチまで。
だけど今夜の彼女は弟分を選んだ。やはり明確な理由もなかった。
手土産のケーキと自分用のビール缶を駅前で買い、夕暮れの町を歩いていく。自宅に帰るばかりであれば寂しさだけが募っていたことだろう。けれど、誰かの家に向かうと思えば足取りが軽くなる。たとえ疲れ果てていたとしても。相手が十歳下の従弟だとしても。
従弟の家は郊外にあるアパートの一室だ。鍵を貰っている十和子は断りなく入っても良いのだが、一応インターフォンを押した。勝手知ったるとは言えどここは人の家。最低限の礼儀は必要だ。すると、
「十和姉だよね? 鍵開いてるから入ってきて」
いつもにこやかに出迎えてくるはずの声が、部屋の奥のほうから聞こえた。
「あんた何してんの?」
部屋に入るなり十和子は呆気にとられた。狭いベランダで従弟の壱哉が笹竹を背負っていたのだ。
「ん、ちょっとご近所から貰ってきた」
夕闇迫る町並みを背景に、青年が笹を背負っている姿は異様に見えないこともない。怪訝な顔をする十和子に、
「今日は七夕だよ。忙しすぎて日付も忘れちゃった?」
壱哉は苦笑してみせた。そういえば駅前商店街を抜けてくるところで七夕飾りを見たような気もする。どことなく街が華やかに見えたのもそのせいだったかもしれない。
壱哉は苦労してベランダに笹を括りつけると、今度は枝に飾りをつけはじめた。一つずつ折り紙で作ったらしい。鮮やかな色が夜の街と緑の笹に映える。
「そんな季節なのね」
「十和姉も書く?」
従弟が指差した食卓の上には、短冊とペンが転がっている。その何本かは既に書き込まれていた。
十和子は持参したビールのタブを空け、一口飲んでから短冊を手に取る。ベランダから吹き込んだ風が、右手にぶら下げたそれを揺らした。
願いは自身と大切な人たちの健康。
もう一枚は、愛娘の無事と幸せを願うもの。
十和子は少しだけ微笑んで、自分用にペンを取った。
その日は何の偶然か、親友から顔見知りまで、皆が遺跡の外にいた。
今思えばそれは彦星と織姫がもたらしてくれた、最後のひと時だったのかもしれない。
遺跡の外は常に人が集まって賑やかだ。島の広さに対して人間が多すぎる。最初の頃はバザールや酒場の人いきれにうんざりしていたが、今ではすっかり慣れてしまった。
今日はその中でもとりわけ賑やかな一角があった。客が絶えないコンビニでもなく、個人が開いている露店でもなく、誰かがパフォーマンスを行っているでもない。バザールからも離れた場所に群れている集団に、眉根を寄せながらも横目で通り過ぎようとして、見過ごせない人間を見つけた。
「……何をやってるんだ?」
一人の肩をつかまえて問う。学生服を着た少年がこちらを見上げて、
「あ、コルトさん」
引きつったような笑顔を見せた。少年は簡易テーブルの上で何かを書いていたらしい。そそくさと肘の下に小さな紙を隠した。
「七夕ですよ。日本という国の、星のお祭です」
「ほう」
人が集まる中心には、誰かが取ってきたのであろう笹の枝が揺れていた。それは鮮やかな色彩の紙小物で飾り立てられ、細長い紙がぶら下がっている。
「ゼロさんがやってみようって言い出しましてね。いつの間にかみんな集まってきたんですよ」
少年が示した先では制服姿の女子高校生がぬいぐるみを抱きかかえていた。兎のような長い耳を持った二体のぬいぐるみはただのぬいぐるみではない。魔力の通った物であるようで、操り手もいないのに勝手に動いている。黒と白のぬいぐるみは短い手を伸ばして笹に紙を結わえていた。
「願い事を書いた紙を下げると、星の神様が叶えてくれるという言い伝えがあるんです」
少年の説明は色々と端折っているが、そもそも日本人ではないコルトにはそんなことはわからない。胡散臭い宗教かと一蹴する。
「宗教と言えば宗教ですかね。でも別に信仰心押し付けてくるわけでもないし、今だけ軽く楽しんでおけばいいと思いますよ」
そして「コルトさんも書きます?」と紙とペンを差し出してきた。
「世界平和でもお小遣いアップでも地底樹拾いたいでも何でもいいんですよ」
「そういうお前は何と書いた?」
少年の顔が凍った。そして腕の下の短冊を握り潰そうとして――手先の器用さだとコルトのほうが早かった。間隙をついて浅黄色の紙を掬い上げる。少年が短く叫び声を上げた。
短冊には東洋の象形文字が四つ並んでいた。たしか漢字とかいう物だったはずだが、残念ながら心得のない彼には読めない。裏から透かして見ても読めるはずもない。コルトが日本語が読めないことに気付いて、少年は胸を撫で下ろした。
「おーい、ゼロ」
だから、読める人間に声をかけた。
「これ、何と読むんだ?」
手の中の紙を翻す。ゼロと呼ばれた女子高校生はそれを見てあっさりと答えた。
「焼肉定食」
「……菅原、腹減ってるならサエに飯作ってもらえ」
「サエさんは食材に対して冒険者すぎるからイヤ……」
そして少年はその場に泣き崩れた。
少しだけ離れた茂みに茶色の影。
「同士よ、楽しそうなことをやっているぞ」
「そうだな、同士よ。これだけ人がいれば我々が混ざっても違和感あるまい」
「ならば紛れ込んでこの七夕の夜を謳歌しようではないか、同士よ」
「そして願わくば織姫ゲット」
「オレ様にも充実した遺跡外ライフ」
「四畳半の部屋で育まれるラブ」
三つの影は四角い頭をつき合わせて密談を交わしている。
宵闇が裾のほうから広がってきた。黄昏の淡い光を残して闇が濃くなっていく。零はカンテラに火を入れ、笹の下に置いた。それぞれの願いが書かれた短冊が柔らかい光に照らし出され、昼とはまた違う顔を見せる。瑞々しい若緑の笹はかすかな憂いを帯びる。
最初は一人でささやかにやるつもりだった。少しだけ日本の空気を思い出せればそれでいい。小ぶりな枝に短冊を吊るし、こっそりと空に願えればそれだけで満足だ。誰の目にも触れないからこそ、素直な気持ちで願い事ができる。
だから賑やかなバザールから少し離れたところに笹を置くことにした。本当は木を隠すなら森の中なのだが、あまり奥まで入り込む勇気もない。遺跡内に比べれば外は平和であるものの、安全だと断言もできない。人目に付くのは気が進まなかったが、道から少し外れたところに場所を構えた。
具合のいい笹を探すのは仲間である菅原が手伝ってくれた。小さい物でいいと言ったのに、彼は大は小も兼ねると言って身の丈よりも大きな枝をとってきた。それを一人で担いで運んでしまうのだから、やはり男にはかなわないと思う。
二人でのんびり準備を進めていると、携帯電話にメールが入った。零と同様に遺跡の外に出ていた親友の式村彩だった。仲間から科せられた訓練から逃げ出したいから遊ばないかという誘いであった。
事情はよくわからないが、彩はここしばらく身体を鍛えているようだった。ぼやきのようなメールがたびたび入るあたり、トレーナーはよほどのスパルタなのだろう。海に行くために今頃ダイエットするなんて、と言ったらデコピンされたので、おそらく別の理由によるものだ。
七夕の準備をしていると返信したら、彼女もやると言ってきた。程なく親友が現れる。それもカバンいっぱいのお菓子を抱えて。
「マラソンなんてダルいって話よ」
「HAHAHA、帰ったらトラック二十周デース」
背後にくっついているのはツヅリという彩と仲間の女性だ。いつも仮面をつけているわ喋りがエセ外国人口調だわで、零はなんとなく近付けないでいる。父には人を見た目で判断しちゃいけませんと教えられたが、そもそも勢いのある人間はどことなく苦手なのだ。
ついてきたのはツヅリだけではなかった。バケツヘルメットのスケルトンも、小柄なのにやけに強いフェティも、ダンディズムを瞳に宿す鳩も一緒だ。
「うるさくしてごめん」
お詫びの印と彩が夏限定のココナッツポッキーを差し出してきた。
「ちょっと驚いた」
笑いながら一本貰って食べる。たっぷりついたココナッツの食感がいい。
「学校は別として、毎年お父さんと二人だけでやってたんだよね。こんな風に人がいっぱいなのは初めて」
「あんたいい加減親離れしなよ」苦笑してポッキーの箱を零に預けてきた。「短冊一枚貰うね」
笹竹の周りでは早くもツヅリやフェティが騒ぎながら願い事を書き始めている。彩もそこに混ざり、唸りながら何を書くか考え出す。ペンを持てない鳩はというと、笹のてっぺんに、クリスマスの星よろしく陣取っていた。
彼女の賑やかな仲間が集えば少々目立つようで、何事かと人が集まってきた。やがて七夕など知らないはずの人間も短冊を書いたり、飾りの折り紙を始めた。
東洋の見知らぬ国の行事は彼らの目には大層奇異見えたに違いない。しかしそれでも実に楽しそうに笹を飾りつける。物事を楽しむ心は国境も種族も言葉も超える。
紙がなくなった頃、一人の少女が色とりどりの紙や布を携えてやってきた。人形のように整った顔の中、赤い瞳が好奇心たっぷりに動いている。
「これをキレーにしていいですなのね!」
「するんだヨー」
彼女は自分より一回り小さいアンセムという名の人形を連れていた。
彼女と彼女の人形は、適当な箱を見つけてきて踏み台にし、鼻歌まじりに笹をドレスアップしていく。どこか調子の外れた主人の鼻歌をアンセムが真似するのだが、歯車が回っているような音にしか聞こえなかった。
一人と一体は袋の中から長い長いビロードのリボンを取り出した。こんな物まで持ち出して、もしかしてクリスマスと勘違いしているのではないだろうか。笹の枝は樹木のそれよりも細い。しっかりデコレーションされた笹はうなだれている。それを見て満足そうに頷く少女の顔を見てしまうと、やりすぎとは言い出せなかった。
何故短冊が下がっているのか聞かれたので答えると、一枚ねだられた。薄桃色の一枚を差し出すと、少女はそこに細やかな絵を描き出した。するとアンセムも真似してペンを握る。一人と一体は箱を机代わりに並んで座る。後姿だけならば小柄な姉妹のように見えないこともない。後ろから覗き込んでみると、アンセムのそれにはのたくったような線が描いてあった。絡み合う線を解読しようと試みたけれど、零には到底無理な話だった。
「リベカぁー、何やってるのぉぉ?」
飛び跳ねる黒いぬいぐるみがやってきた。うさぎのように長い耳、宝石のような赤い瞳のぬいぐるみは少女とアンセムの周りを飛び回る。
「少しは落ち着くぜよ」
その長いバネのような尾を掴んだのは白いぬいぐるみだ。こちらは手足と耳が青く、左目に眼帯を付けている。勢いを削がれ、黒いぬいぐるみは地べたに落下した。
「アヒャ?」
「リベカ殿の邪魔をするでない」
白いぬいぐるみが黒いぬいぐるみを諌める。今となっては見慣れた光景だが、零はそこに割って入り、二体にも短冊を差し出した。ぬいぐるみの手で筆記具が持てるのかと思ったが案外器用なもので、なかなか滑らかな筆跡だ。ただし、それが読めるかどうかは別として。
一人と三体が楽しげなので、口は挟まないでおこうとそっとそこから離れた。
「ボクもいいかな」
突然の声に振り返る。顔の半分を包帯で覆った、色素が薄い少年だか少女だかがそこにいた。ほとんど真っ白で、人のアルビノ種にも見える。声を聞いても今ひとつ性別がはっきりしない。どことなく浮世離れした雰囲気がますます曖昧にする。輪郭が柔らかいからやはり女性だろうか。
邪気がない聖君のような微笑みに一瞬目を奪われた。華やかではないが、人を惹き付ける微笑み。零は何も言えず、ただ頷いた。すると彼女はその笑みのまま、笹に近付いてゆっくりと手を上げる。
零は一挙手一投足を見守っていたが、それ以降は見なかったことにした。
何を思ったのか、一抱えもある卵を頂点に括りつけようとしているのだ。
卵には羽が生え、顔が描いてある。目を閉じた安らかな表情だ。ぬいぐるみか何かなのだろう。どう見ても飾りと言えるようなかわいいサイズの代物ではない。
そして誰も彼女を止めようとしない。零は既に諦めきっていた。ここまでくればどんな物がぶら下がっていようとも驚きはない。イースターエッグでもジンジャーブレッドでも何でも来いと開き直ってしまえる。
それにしても、結構な人が訪れては去っていく。物珍しいからかもしれないが、東洋の、それも日本などという小さな国の慣習に、皆が興味を示すとは思っていなかった。零は感慨深げに様子を見る。当初の予定とは大きく外れたけれど、これはこれでパーティーのようで楽しい。
人に似て明らかに人ではない、どこか日本の妖怪の面影がある一団は、笹竹の前で一騒ぎして通り過ぎていった。当たり前のように人外の者が歩いている。この島ならではの光景である。かつて零がいた日常ではまずありえない。
賑やかな物の怪集団を見送っていると、その中から一人が慌てて引き返してきた。前髪をまっすぐに揃えた長い黒髪の少女だ。見た目だけは零と同じ人間に見える。彼女は急いで短冊を一枚書くと零に託し、
「これ、下げといてな」
結い上げたポニーテールをたなびかせ、小走りに仲間のところへ戻っていった。
家のご近所にもいそうなくらい普通の女の子なのに、人ならざる集団の中にいる。これもまたこの島ならではの光景である。
その集団がバザールに溶け込んでいくのをぼんやり眺めてから、零は手の中の薄桃色の短冊を見た。下げといてと言われたそれには『魔法少女になりたい』と書いてあった。
「……まあ、願い事は人それぞれだよね」
思うところはあれど、本人もいないのに突っ込むなどという無粋な真似はしない。手が届く限り高いところに結わえようと爪先で立った。せめて人の目につかないところに下げてあげるのが人情というものだ。
「そのくらいやってあげるわよ」
指先から短冊が消えた。その短冊の行方を追っていくと、遥かに高いところでひらめいている。顎髭に金髪の青年が、零には到底届かないであろうところに短冊をくくりつけていた。それも、彼女のすぐ背後で。頭に青年の胸が当たる。
「――!!??」
声にならない声を上げ、零はその場に尻餅をついた。それを見て傍らの少女がくすりと笑う。
「笑うなんてひどいですよ、桜庭さん」
真っ赤になっているであろう顔は俯いたまま、知った声に抗議した。零を見下ろしているのは赤いリボンに制服姿の、同じ年頃の少女だ。この島の学校で共に勉強した学友でもある。連れの青年も知っている。少女の保護者として高校の合宿にきていたからだ。青年は尻餅ついたままの零を見て、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
二人はそれぞれ短冊を書いて笹に吊り下げ、バザールの方に戻っていった。背の高い青年と並ぶ少女の後姿を見て、
「桜庭さん、雰囲気変わった……?」
誰にも聞こえない小さな声で呟いた。零が知っている彼女であれば、高い声で笑ってもおかしくないはず。なのに今日はやけに落ち着いていた。
「もしかしてオウミさんとデート中だったのかな」
二人きりの時だけは桜庭さんも女の子になるんだ、などという大きな勘違い。そんな想像をされているとは当人たちは知る由もない。
それまでがまだ空が明るかった頃のこと。
今ではすっかり辺りも暗くなり、人の顔も判別がつきにくくなってきた。カンテラを数個、足元に置いてはいるが、光量はできるだけ抑えてある。
「ゼロさーん」
幼い少女が手を振ってやってきた。歳の頃は十歳かそこら。普段はハリボテのレンガ壁を被っている変わった娘だが、今日は朝顔柄の浴衣を着ていた。背中で珊瑚色の金魚帯が揺れている。
傍らには灯明を持った背の高い女性が付き添っていた。肩もへそも剥き出しの露出度の高い服装だが、不思議とそれがごく自然に見える。
「ナズナちゃん、エリカさん」
笹飾りを眺めていた零はにこやかに二人を迎えた。思わぬうちに人が集まってしまったので、遊びに来ないかと誘ってみたのだ。
「差し入れ持ってきたぞ」
エリカが箱を差し出してきた。受け取るとずっしりと重い。ケーキボックスの中にはプリンが幾つか入っていた。最近改装したコンビニで取り扱いを始めたものだ。
「わぁ、美味しそう」
「ナズナのオススメなのです」
少女がえっへんと胸を張る。
「全員で分けたいけど、ちょっと少ないかな」
入れ替わり立ち代わり人はやってくるけれど、人が減る様子はない。笹の足元に置かれた台には短冊とペンを置き、自由に書けるようにしていた。今では様々な言語で書かれた願い事が、笹の葉とともに夜風に揺れている。
ナズナが零を手招いた。膝を折って顔を近づけると、神妙な声でこんなことを言った。
「後でゼロさん一人でこっそり食べちゃってくださいね」
真剣な耳打ちに零は微笑む。
「ありがと。だったら今三人で食べちゃおっか」
置いておいたら誰かに見つかってしまいそうな気もするし、独り占めするには多かった。
「いいんですか?」
ナズナの顔が明るくなる。女性三人で秘密と甘い物を共有する。そんな話が楽しくないはずがない。
「その前にこれ書いてみる?」
二人に短冊をペンを渡す。七夕の説明をしようかと思ったら、ナズナは既に短冊に願い事を書き始めていた。幼い外見ながら色々知っているらしい。もしかしたら主人である鬼城勝から教えてもらっているのかもしれない。
一方でエリカのほうは短冊を手に戸惑っていた。人ではない彼女には、こんな紙切れに願い事を書くという行為自体が理解できないらしい。由来から丁寧に説明すると納得したようで、ならばやってみようと書き始めた。
「あの」真剣に考えている二人におずおずと零は問う。「ところで鬼城さんと隼人さんは?」
ナズナ、エリカと共に行動している二人の男の姿が見えない。ここにいない人間の名前を口にするだけなのに、何故か二人と目を合わせられない。ナズナとエリカは顔を見合わせて肩を竦めた。
「二人は、その、ちょっと手が空かないようでな」
エリカの歯切れが悪い。
「た、多分後からこっそり覗きに来ますよ! 珊瑚さん達はシャイですから」
「そう……なんだ」
あれ、と零の心に疑問符が浮かんだ。ナズナに声をかけた時、男二人の来訪を期待していなかったと言えば嘘になる。しかし直接言ったわけでもないから期待半分。残念に思うことはない。なのに、どうしてこんなに落胆しているのだろう?
道の先、バザールのほうを見やる。誰かが楽器をかき鳴らしているらしい。風に載って流れてくる素人商人の呼び込みの声に混ざって、軽やかな音楽が聞こえてくる。夜はまだまだ長く、冒険者たちは遺跡外での一時を遅くまで楽しむつもりであるらしい。
明かりに照らされ、バザールのテントに人々の影が大きく映る。いつの間にか、そこに見知ったシルエットはないかと探している自分がいた。そのことに気付いて頭を振り、大きく息をついて空を見上げた。
黒塗りの空に大小の星々が瞬く。今日は昼もよく晴れ、夜も晴れた。幸い今夜は新月で、侵入者のように天球の端からやってくる雲もない。落ちてきそうなほど満天の星空だ。海に囲まれた孤島、そして日本とは異なり化学技術に汚染されていない環境。夜気はどこまでも澄み、無駄な光もない。だからこそありのままの空がここにある。
霞のように天球を横切るのは天の河だ。極小の星の群れを挟み、両岸には一際輝きが強い星が二つある。織女星と牽牛星だ。恋人同士の星は年に一度、一晩だけ出会うことを許される。今夜はその運命的な夜。引き裂かれた恋人たちの伝説だ。
しかし、これは悲恋の物語なのだろうか。
年に一度しか会えない運命なのだとしても、二人の想いは既に通じている。二人の愛は距離も時間も超越し、伝説として永遠のものとなっている。
それはそれで幸せな話ではないだろうか。
――私はどうなんだろう。
零は長い間悩んでいた。昨年の夏に芽生えた感情のような何か。まだ短い人生だけれど、そんな気持ちを抱いたのは始めただった。受験勉強中も、惑わされてはいけないと思いつつも悩み続けていた。
時々むず痒いような気持ちはあるけれど、それを恋と呼んでいいのかどうかわからない。そもそも、何をもって恋が始まっていると言っていいのかもわからない。
セーラー服のポケットから折り畳んだ紙を取り出して広げた。若竹色と浅葱色の二枚の短冊だった。若竹色のほうには故郷の父親の健康と無事を願った。浅葱色のもう一枚も広げてみたが、こちらはすぐにまた折り畳んだ。小さく畳んで掌で包み込み、胸に置く。ちょうど祈っているような格好なのだが、零にその自覚はない。
父親以外の男の名を思い浮かべただけで鼓動が早くなる。ましてやその名を紙に書くなんて。
頬に手を当てて熱を逃がす。けれど、身の内から発せられる熱は一向に納まらず、顔が赤くなっていると思うとますます赤面がひどくなる。
――やっぱりこれってそういうこと?
自分の中に棲む冷静なもう一人の自分が問いかけてくる。行動の意味を求めてくる。そんなことをして何が変わるというのか。ただの自己満足に過ぎないと叱責する。
ぐるぐると思考が回る。どうしてこんなのを書いてしまったのだろうという羞恥心と、もはや神頼みしかないという気弱な心。あの人から見れば自分はまだまだ子供で、“女の子”と見てくれたとしても“そういう対象”にはならないだろう。
むしろ自分は“特別な存在”になりたいと願っているのだろうか。今のまま、近い場所にいられればそれで満足ではなかろうか。
考えれば考えるほどわからなくなってくる。
これまで一番大切なのは父親で、これからもそうだと思っている。血は繋がっていなくても、かけがえのないたった一人の家族だ。
その父を超えるかもしれない大切な存在の可能性なんて、考えたこともなかった。
――私は。
再び空を見上げる。昨年の夏、海辺で見たのもこの空だった。花火大会の夜に、二人で見上げたそこにも、大きな天の河が横たわっていた。
その人の優しさを知ったのもその夜だった。
星空は静かに瞬く。星たちだけは零の願い事を知っている。
「なんだかいい雰囲気に見えるな、同士よ」
「羨ましいとか口が裂けても言えないぞ、同士よ」
「オレらもこれから頑張ればいんじゃね? 同士よ」
茶色い頭が三つ。
遠いカンテラの光をぼんやりと受けている。
「で、七夕で彼女つくっちゃうぜヒャッホー大作戦の準備はどうだ」
「ぬかりなく。投げ縄は人数分用意済みだ」
「後はターゲットをロックオンするだけだな」
「オレ様はあのスパッツ少女をいただく」
「おま、ズリィ! その子はオレ様が狙ってたんだぞ!」
「オレ様はやっぱイディア様かなー。こんな機会でもなければお近付きになれん」
「普段は青い髪の小僧が邪魔だからなー」
「イディア様は我らが聖域。触れること罷りならん!」
「キャラ変わってんぞ、お前」
「仕方ねーべ。イディア様は偉大なるツンデレの星……」
「!! ま、待て、見ろ!」
突然、一人が空を指差した。残り二人が何事かと目を凝らす。
紙袋型の覆面は視野が狭く、かなり首を曲げなければ上空が見えない。
漆黒の闇を背に。
オーラを放つ、白い影。
その影が鳥類であると認識するか否かというころで――光弾の雨が降り注いできた。
「は、鳩様! 鳩様ご乱心!!」
「理由はわからんがご立腹の模様! 撤退、撤退ー!」
「か、紙袋に穴がぁぁぁっ!!」
奇妙な姿の三人は森へ逃げるべく、あっさりと襲撃者に背を向けた。
そこには。
「ふふ、楽しそうね。私も混ぜてもらえるかしら?」
「「「イ、イディア様ぁぁーーっ!!?」」」
優雅な物腰の蒼闇公。
公はたおやかな手振りで両腕を掲げ、
「アル・クェーク・ソア!!」
どっかーん
「……彩ちゃん、何だか向こう側が賑やかなんだけど」
「気にしたら負け」
ENo.42 ザッハ
ENo.143 リベカ=メルキオレ
ENo.292 メイリ・シュロス=リュィハイ
ENo.650 式村 彩
ENo.872 桜庭撫子
ENo.905 交喙 雀鷂 【いすか・つみ】
ENo.966 鬼城 勝
ENo.1411 エリカ・M・ユダ
ENo.1617 イディア=アイラス
ENo.1917 オウミ・イタドリ
PMさんお二人
(ENo.順、敬称略)
(以上の方お借りしました。ありがとうございました。)