光の翼を持つ少女
電波搭はおろか、電気すら整備されている様子がない。そんな島の遺跡の中で何故携帯電話が使えるのか。その謎は未だ解明していないが、使えないよりは使えるほうがいい。零は今日も身内への定期連絡メールを書いていた。内容は大した物でもない。元気である旨と、現在の状況を書き添えるだけだ。
メール送信完了の画面を確認し、携帯電話を閉じる。
「ゼロさーん」ハイティーンの少年の声に、一瞬身体が強張る。「行きますよー」
「は、はいっ」
回廊の向こうから少年が零を呼んでいる。知った声とわかると安堵して、零はそちらに振り返った。学ラン姿の少年が腰に手を当てて待っている。ちょうど回廊の途切れ目で、彼の背後には明るい平原が見えた。少し涼しくなった風がコスモスらしい草花を揺らす。
少年と道を共にしてそれなりの日数が過ぎた。最初の頃こそ人見知りと男性恐怖症で満足に喋れもしない状態で、零は常に遮蔽物の背後にいた。さすがに今となっては慣れ、壁がなくても話すまではできるようになった。距離が必要なことには変わらないけれど、零にして大きな進歩だ。返す声は多少上擦っているものの、何も言えないよりはいい。
「あの……」
先を行く少年を留めようと手を伸ばすが、中空で止まる。何かを掴もうとした手は半端に開いたままだ。
「そ、そういえば、メイちゃんからメールが来て……」
零は俯いて携帯電話を開く。声が小さくて聞こえるくかどうかというところだったが、少年が足を止めて振り返った気配がした。しかし顔を上げて確認できない。せめて赤面症だけでも治したい。頬が赤くなるのが恥ずかしい。ならなければ少しはまともに話せるのに。
携帯電話を操作して、三通ほど前のメールを開いた。小さな液晶画面にひらがなと絵文字が踊っている。
「……『すがーらさんのあたまはにくあじ? パンあじ? ししょくしちゃダメ?(;ω;)』って悩んでいました」
あれほど魔物で溢れていた回廊には何故か獣の声もなく、静寂だけがある。息遣いすら反響しそうなほどに静かだ。たっぷり呼吸一拍分置いて、深い深い溜息が聞こえた。
「……ごめんなさい、それはできない相談です」
その二人の間に突然、光が割り込んできた。
「え? 私!?」
光はとてつもない速さで零に飛びかかってきた。不意を突かれたために反応が遅れる。まばゆい光を正視してしまった目は眩み、そこにいるはずの仲間の姿をも見失った。耳をつんざくのは人の常識を逸した音だ。悲鳴とも笑い声ともつかない甲高い声が零の鼓膜を揺さぶる。
零も五十日間あまりをぼんやりと過ごしていたわけではなかった。蒼凪壱哉の養女として生きた八年間に学んだ術は、この不可思議な島で生き残る技術として大いに役に立っていた。
危機への対処と咄嗟の判断力。ただ学生をやっているだけではそんなものは身につかないし、鍛えようと思って鍛えられるものでもない。必要に迫られてこそ、神経に、筋肉に、骨の髄まで刻み込まれる。
考えるよりも早く術を繰り出し、損害を最小限に抑える。これまでもやってきたことであり、零はそんな自分の身体を信じていた。
しかし、今回ばかりは相手が悪かった。ただ突撃してきただけならともかく、不意を打たれて光に意識を取られた。視界とともに思考までホワイトアウトした。そこに隙が生じる。
術を編むよりも早く両腕を掴まれ、地面に引き倒された。背骨を強かに打ちつけ、息が詰まる。懐に忍ばせていた術符と携帯電話、そして宝玉が四つ、空に舞った。
「いひひひ……あはははははッ!!」
金属を擦り合わせたような歪な声だ。一時的に光を失った目を補うため、零の耳は鋭敏になっていた。余計に声の不快さが増す。
しかし幸いなことに襲い掛かってきた何者かは小柄な体躯であるらしい。加速により衝撃は倍化していたがそれだけだ。女子一人を地面に張り付けておくだけの腕力もなく、腹の上に載った重みも大したことがない。
咳を一つして呼吸を確保、短く息を吐いて勢いをつける。身を捻り、圧し掛かっていた物の下から抜け出した。転がった勢いで膝をつく。
「私に何の用ですか!」
スカートのポケットから残っていた術符を取り出し、撒いた。舞い散る符、一枚一枚が光を点す。霊的な力に満ちた術式が零を中心に展開した。身体系の強化術だ。神経を渡るアドレナリンが加速して、反応速度が段違いに上がる。
同時に背中に仕込んだ霊装が、文字通り翼を広げた。鳥のそれを模した擬翼は子供のおもちゃのように小さい。もちろん飛ぶことはできないが、運動による筋負担を軽減する術を封じてある。身体への反動が少なくなるので、多少の無理がきくようになる。
もっとも、霊装がこの形である必然性はない。そこは気分の問題だ。あえて誰の趣味であるかは伏せておく。
術と霊装の二重の効果で零の体は重さを忘れる。
視界にはフラクタルなノイズが蠢いている。これが消えるまでは攻めに転じることはできない。必然と零は守の役を与えられ、その時まで耐えることとなる。
先手も取られ、目も奪われた。せめて位置だけでも掴もうと耳を澄ますが、自分のものではない翼の羽ばたきと叫び声がうるさい。敵は大型の鳥か、鳥様の何かなのだろうか。羽ばたきと声は右から聞こえたと思えば左に、前かと思えば後ろにと絶えず移動している。周囲を巡る音に翻弄される。
こういう時は自分の防御を固めてから周囲一帯を殲滅するのが一番楽な方法だ。だが、ゲームの魔法使いでもあるまいし、そこまで規模の大きい術など使えない。かと言って当てずっぽうに散弾を撒き散らしたところで、牽制にはなっても痛恨の一撃にはなりえない。
「困ったな」
眉根を寄せる。零は少し特殊な技術が扱えるだけで、根本のスペックはそこらにいる女子高生と変わらない。スポーツ経験も禄にないから運動能力は極めて人並み。華奢な腕では鋼の肉体と称せるはずもなく、マラソンなんてすればすぐに息が上がる。術式と霊装のおかげで今は瞬発力が上がっているが、素で走れば百メートル走はやっと十九秒台だ。
視力回復まで時間を稼ぐしかないが、一方的な攻撃を受け続けていられるほどの体力もない。
とりあえず、飛び上がってみた。増幅された跳躍力で、高さは人間一人分を超えた。風を含んで髪が膨らむ。
うずくまって防御姿勢をとっているだけでは埒があかない。幸いにもここは遮蔽物が少ない平原だ。動けるだけ動いて霍乱してみるのもひとつだろう。
重力に従って落下に転ずる寸前、脳を揺るがすような叫びが響いた。反射的にそちらに向かって術を放った。直接殴りかかっているわけではないから、もちろん手応えはない。地面を抉ったと思しき破裂音が叫び声を打ち消した。
襲撃からこれまで、長かったようだがそうでもない。身体の反応速度が上がっているため、体感で時間が長くなっていただけだ。実際の経過時間は一分少々というところか。やっと目が順応して視界が晴れた。
地面に降り立った零の目の前に、光輝く翼の少女がいた。長い金色の髪に金色の瞳、そしてゆったりとした白い服を着ている。容姿だけを挙げれば天の御使いと言ってもいいだろう。だが、少女の瞳孔は異常なほどに開いている。零自身は知らないが、散瞳という状態に近い。目は虚ろな光を宿し、あちこちへと視線をさまよわせる。零など眼中にないようにも見える。
そして半開きの口からは絶えず涎と金切り声を垂れ流している。その奇態を前にして、零の足が無意識のうちに一歩後退する。
「お話し――」
それでも人型であればと期待を込めて口を開いたが、その頬を光の矢が掠めていった。
「――できそうにないですね」
皮を浅く裂き、流れ出た血を手の甲で拭う。アレは野生動物と同じだ。獲物を追い、喉笛に噛み付く肉食獣と思え。もしかして元は人間だったのかもしれないが、現状ではまともな思考は期待できない。
深く一つ息を吸う。
四つの宝玉は先ほどばら撒いてしまった。あれから注ぎ込まれてくる力は大変心強いものだったが、今は頼りにできない。身体増強の術もさほど長くは維持できない。限界を超えて行使すれば、身体が壊れてしまう。短時間で決着をつけなければならない。
高速で術を編み、確実に相手を落とさなければ我が身が危うい。もって五分。いや、五分ももつだろうか。
発動までの操作が一番楽な術式は考えるまでもない。予備動作なしで零は大気中の水分を掌中に凝縮した。ごく小さな吹雪が右手の上で渦巻く。これを至近距離で解き放てば相手は内臓までも凍りつき、活動不能に陥るはずだ。
「ひゃはは……ひゃははははッ!!」
少女には零が見えているのだろうか。小声で何事かをぶつぶつと呟いていたかと思うと、不快な金切り声でわめき立てる。翼を必要以上に羽ばたかせているため、辺りには抜け落ちた蜂蜜色の髪と光の羽根が散らばっていた。
少女は弛緩した手を両脇に垂れている。なんとも無防備な姿は隙だらけで、いくらでも攻撃を当てられそうだが、なかなか難しい。少女の動きには一貫性がない。歩いていたかと思えば座り込み、座っているかと思えば突然飛び上がる。実は戦意はないのかと油断をすれば攻撃が飛んでくる。
あの動きを読んで懐に飛び込み、術を打ち込むのは至難の技だ。的が小柄なせいもあり、確実な一撃が入るかどうかも怪しい。
時間はないが零は考える。相手の動きを読み切るか、動きを止めるか。
身を震わせる叫びとともに再び光の矢が飛んできた。真正面から顔を狙っている。膝を折ってそれをかわし、左手を軽く地に添えた。右膝は折ったまま、左脚を後方へ伸ばす。肩を上げ、体重を前方に移動。
すでに強化系と吹雪の術を発動しているので、これ以上平行して術を使えない。経験を積めば複数発動も可能になるが、零はそこまでには至っていない。だから動きを止めるために術は使えない。ならば。
右足で地を蹴り、自分自身を射出した。速度を載せ、走る。風を切る。身体が軽い。
ならば、相手を上回る速度で動けばいい。
少女は柳のように揺れている。光る翼を背に負う姿は宗教の神々のように見えなくもない。煩わしい叫声と、何も映さない虚ろな目さえなければ。
その背後が一際明るく輝きだした。
円陣だった。少女の身の丈あまりもあるであろう魔法陣が展開されている。この少女は大型の攻撃魔法も駆使するのだろうか。見たこともない式だ。
しかし飛び出した弾丸は的に当たるまで止まれない。何が出てこようとも、甘んじて受けるしかない。零は平原を駆け抜け、少女との距離を詰める。
魔法陣から青白く丸いものが二つ、せり上がってくる。少女の叫びに呼応するかのように、ゆっくりとこちらの世界にやってくる。
半分まで現れた。それは生白い赤子だった。血管が浮いた大きな禿頭、黒い穴が開いているだけの眼窩、膨らんだ腹。そして背中には羽根が抜け落ちた一対の翼が生えている。短い手を懸命にこちらに伸ばしている。早く出たいと泣き叫ぶ。これが天の御使いであるならば、神様とやらに絶望しなければならない。
天使もどきが爪先まですっかり現出するか否かというところで、零は少女の足元まで詰めた。左手で天を指す。そこには少女の小さな顎があった。
発動に言葉はいらない。ただ意思によって放つだけだ。
冷気が少女の顔を舐める。首から顔の水分が奪われ、薄笑いが文字通り凍り付いていく。風になぶられた髪は広がったまま動きを止めた。黄金色の瞳が白く濁る。
頭は氷の中に封じた。しかし、それで止まるような生物ではなかった。そこが零の誤算だった。少女は最初から理性を失っている。身体を動かしているのは脳ではなく脊髄。まさしく本能と反射のみで行動していた。
術が失せた左手を、少女の手が掴みとった。零よりもはるかに小柄なはずなのに、易々と零を吊り上げる。凍り付いたままの笑顔が更に歪んだ笑みを浮かべたように見えた。零の背筋を冷たい物が下りる。
全ての姿を現した天使が二つ、いつの間にか零の真上に飛来していた。黒い眼窩から黒い涙を流して、叫びとはまた違う歪んでぼやけた産声を上げて、零へ向かって一気に降下してきた。
空いている右手で少女の腹を突き飛ばすが、吊り下げられているせいで思うように力が入らない。少女の身体もまた、柳の枝のようにしなって衝撃を吸収する。左手は掴まれたまま、解けない。血の気が引いた。混乱に襲われ、術を編むことも忘れる。もう駄目だと冷静なもう一人の自分が諦めの溜息をついた。
――お前はその程度だったのか?
厳しい声に、目が覚めた。
爪先を伸ばすと足がわずかに地に届いた。辛うじて踏ん張れる。掴まれたままの左手を天使たちのほうに向けた。少女の力は大したことがなく、零の思うがままに動かすことができた。
身体強化の術を解く。左手を頂点に、薄い半透明のドームが現れる。氷の膜だ。腕を伝って冷気が頬に落ちてくる。天使は赤子の身に重力を載せたまま膜に衝突した。膜は粉々に砕け散ったが、方向を逸らされた天使は無様に零の足元に落ちる。
それを見届ける前に右掌を少女の腹に当てた。詠唱はいらない。術式構築もいらない。何色にも染まらない純粋な力を零距離で放出する。
「――!」
人の声帯の限界を超えた音が少女の喉から搾り出される。いっそのこと可聴域から外れればいいのに、超音波に近いそれがまともに零の耳朶を打つ。
零の手首を掴む手が緩み、少女が崩れ落ちる。咄嗟に支えようとした零の視界の片隅に、小さな影が二つ現れた。眼窩に虚無を宿したあの天使たちだ。
後方へ跳んで距離を取る。少女の身体はそのまま地面に倒れ込んだが、下は草原だから大した怪我にもならないだろう。
無いはずの二対の眼が零を見る。底の知れない暗い闇がある。その顔に表情はないのに、笑っているように見えた。泣いているようにも見えた。憤怒が、驚愕が、絶望が、歓喜が、憎悪が見えた。
愛だけが、無かった。
天使たちは零目掛けて飛んでくる。空っぽの幼子の手で何を掴もうというのか。何で濡らそうというのか。
零は両腕を胸の前で交差させる。それぞれの手に術符を二枚ずつ、指に挟んだ。細い紫電の蛇が、指と符に絡みつく。
ある者はこの島は自然であると言った。人間種が忘れた野生そのままの世界だと言った。それはすなわち、強いものだけが生き残る、弱肉強食の世界だ。優しさだけでは生き延びられない。生き残りたいなら戦わねばならない。
下唇を噛む。
生きて、もう一度会いたい人たちがいる。
二条の電撃が小柄な肢体を絡め取った。小さな翼で宙に浮いていた天使たちは重力のままに落下。そしてまるで何もなかったかのように消え失せた。断末魔の悲鳴すらない。主を失った被召喚者は、この世界に存在するだけの基盤を失い、元の世界に返ったのだ。
そう、消えただけだ。殺傷したのではない。
零は胸を撫で下ろした。たとえ生きるためとは言え、生物、あるいはそれに類するものの命を奪うのは心が痛い。
息をつくと同時に足の力が抜けた。柔らかな草が生える地面にへたり込む。特に鍛錬もしていない身体に強化系の術は堪える。特に神経強化系は反動も大きい。日頃ではありえないくらいの運動量をこなした関節が悲鳴を上げていた。
悲鳴といえば、先ほどまで鼓膜を揺さぶっていた少女の叫びも薄れていた。たしかに人間の姿をしていたはずなのだが、今や小さな光の玉へと変貌していた。
「――」
何か声が聞こえた気がしたものの、草原の風に流されてよく聞き取れなかった。光の玉は覚束ない動きで上空へと昇っていく。それを呆けた顔で見送る。光が青い空に吸い込まれるようにして消えた頃、零はようやく自分に二本の足があることを思い出した。
緩慢な動きで立ち上がり、スカートについた草を払う。光り輝く少女を相手にしているうちに散乱してしまった宝玉を拾い集めた。四色の宝玉は零の手の中で穏やかに光る。少女はこれの気配を感じて襲ってきたのだろうか。
この宝玉を七つ集めれば財宝が手に入るという。その言葉を信じて四つまで集めたはいいものの、災難に見舞われるばかりで一向に良いことがない。まるで集めれば集めるほどに不幸が増していくようだ。
宝玉と一緒に投げ出された携帯電話も見つかった。あれだけ贅沢に術を使ったにも関わらず、幸いにして傷はない。少し操作してみたところ動作にも支障がなかった。そして携帯電話はあの戦いの最中、友人からのメールを受信していた。電化製品は雷撃で簡単に壊れてしまうと思っていたが、零の電撃の術程度では何の影響もないようだ。携帯電話もなかなか強かなものだ。
携帯電話からぶら下がったストラップに目を留める。そこには赤と青、二色の玉が数珠繋ぎになっている。元は火と水の宝玉だったものだ。今では本来の持ち主を失い、宝玉としての力も失っている。だからこの宝玉から力を得ることはないはずなのだが。
「偶然、だよね」
目の高さまで持ち上げて検分する。少女が襲いかかってきたその時、一瞬だけ光ったような気がしたのだ。しかし零は光の加減と割り切り、ポケットに仕舞いこんだ。
風が零の髪を揺らす。平原には隠れるところもないはずなのに、誰の姿も見えなかった。仲間とはぐれたことを思い出し、急に心細くなる。一人には慣れているはずなのに、そんなことを思った自分が不思議でたまらない。
「心配してるかな」
そして零は近くにいるはずの仲間を探して歩き出す。
それほど遠くない空に、無骨な岩山の尾根が見えていた。