ある冬の日と、ある冬の日の幻想
島の港は小さい。便宜上港と呼ばれているが、実際は辺鄙な漁村のそれとそう変わらない。粗末な桟橋が突き出ているだけの入江は狭く、小型のフェリーがやっと入れるかどうかというくらいだ。
それでも島への出入りにはこの港を使うしかない。外部から島への唯一の玄関口なのだ。これまで多くの招待客がここから上陸し、そして去って行った。
今日もまた船が出る。荷物を抱えた乗客らが港に集まっていた。彼らは島を出る一団だ。やむを得ない理由で遺跡探索を断念した招待客だった。そこらで仲間たちと別れを惜しむ声が聞こえる。
零もその島を去る一群の中にいた。だが、彼女は他の乗客達とは違った。大学の入学試験のために一時帰国するだけだ。それが一段落したらまた島に戻ってくるつもりでいた。
「私の代わりの人が来るはずなので、よろしくお願いします」
零は頭を下げた。相手は同じ年頃の少年だ。彼は縁日によくあるようなお面を頭の後ろにつけていた。しんみりと周囲とは変わり、有名なヒーローの顔のお面だけはにこやかに笑っていた。
「あの、こんな大事な時に穴を空けちゃって、本当にごめんなさい」
「代理の人も来ることですし、こちらは心配しなくていいですよ」
零と少年の距離は約三メートル。これが男性恐怖症の彼女の精一杯だった。
「ところで代理の人ってどんな人?」
「十和子さんというOLさんか、メイちゃんという兎の女の子です。二人とも私よりずっと頼りになりますから」
まだ来てないみたいだけど、と零は少しだけ顔を曇らせる。島を離れるにあたり、それだけが気掛かりだった。
「出発の時間でーす」
二人の会話を船員の声が遮った。
「時間、ですね」
足元に置いた荷物を抱え上げる。
「陽奈さんやエドさんたちにもよろしくお伝えください」
言って再び頭を下げた零に、少年は手を差し出した。わけがわからず零はその手を見つめていたが、意味するところを汲むと、小さな声で「ごめんなさい」と言った。
「まだ無理ですか」
少年は苦笑する。零は実に申し訳なさそうに謝り倒す。近くで話すのもやっとなのに、握手はハードルが高すぎた。
「まあ、この問題は帰ってきてから追い追いということで」
差し出していた手をバイバイと振る。零も肩口まで手を挙げ、小さく振った。そのまま船のほうに歩いていく。
乗船口に並び、切符が切られるのを待つ。
そこに。
「蒼凪さん!」
呼ばれて振り返った。背が高く、細面の青年が息を切らせて走ってくる。
「受験でしょ? これ……お土産!」
彼は零まであと少しというところまで来ると、何かを投げて寄越した。反射的に受け取って見ると、それは小さな木箱だった。
「中身、見て!」
肩で荒い息をしながら青年が言う。零は言われるままに紐を解き、蓋を開けた。東洋の薬のような香りが鼻腔をくすぐる。
「これ――」
中の物を指先でつまんで取り出す。それは小振りの黄色い包みだった。お土産ではない。お守りだ。
「合格祈願とかいうのに適した布で作った、匂い袋だけど……よかったら、どうぞ♪」
「ありがとう……ありがとうございます! 絶対合格してきます!」
ありったけの大声を出し、零は深々と頭を下げた。
顔を上げると、青年の姿が見えない。滲んだ視界にぼんやりと金の髪と白いシャツが映るばかりだ。
「お客さん」
船員が手を差し出してきた。零は涙を拭って切符を渡す。
「良いお友達をお持ちですね」
切符とともに返ってきた言葉に、零は深く頷いた。胸に小さな包みを抱き締めて。
手を振る少女の姿が船の中に消えた。昼前のこの時間、海は凪の状態で実に穏やかだ。船は滑るように走り出す。少年はその船が水平線の向こうに見えなくなるまで眺めていた。
「行っちゃった」
これからどうしよう」
上着のポケットに手を入れてぼんやりと海原を見る。水面に光が反射して眩しい。
「帰ってきてくれるのかな」
一人残され、桟橋でぽつりと呟く。彼女はいずれ帰ってくると言っていた。しかし一時だけとは言え、やはり別れは寂しい。
彼女には彼女の信念と目的があった。ただ漫然と宝を求めたのではなく、宝を必要とする理由があった。莫大な富でもなく、栄光でもない。彼女は進学費用がいるから、と少し寂しそうに言っていた。
つまり、他の手段で進学資金が得られればこの島に滞在する理由はなくなる。
もちろん彼女の不合格を願う気持ちはないが、もしかしてもう会えないかもと思うと寂しさがつのる。
「ここまで一緒に頑張ってきたんだもんな」
「仲が悪いよりは良いほうがいいと思いますよ」
「戻ってきてくれるといいんだけど」
「合格して戻ってきますよ。僕の自慢の娘ですから」
何故か独り言に返ってくる声。
少年は驚いて後ろを振り返る。
「ところで君と零はどういう関係なのかな?」
少年の真後ろで、長身の青年が仁王立ちに構えていた。薄ら笑いに青筋を浮かべた顔には余裕というものがまったくない。
どう言葉を返そうか悩み、
「ちょっと、答えてくださいよ!」
青年を無視して少年は遺跡のほうへと歩いていく。妙なのは紙袋のサラリーマンだけで充分だ、とぼやきながら。
これが少女の代理人だと判明するのは、あと一時間後のことである。
* * *
それはある冬の夜の幻想。
娘――零が大学受験のために日本に帰った。
僕は物陰から零が乗った船を見送ると、遺跡のほうに引き返した。遺跡の側には探索者のための宿がある。零はこの一室を借りて拠点としていたようだ。宿と言うか、賃貸のアパートのような四畳半の部屋で、零はここで勉強をしていたらしい。勉強机代わりのこたつの上には、解き終わった問題集が何冊か置いてあった。少しめくってみると、びっしりと書き込んである。探索をしながらよく勉強できたものだと、わが娘ながら感心する。
他に何かないかと探してみると、行李が一つ置いてあった。「開けてください」と蓋に付箋が張ってあったので開けてみる。中には包装用品と様々な品が納まっていた。そして「ラッピングして皆さんに渡してください」というメモ。どうやら包装しようと思ったものの、出発に間に合わなかったらしい。時期を考えるとこれはクリスマスプレゼントなのだろう。時間もなかったはずなのによく準備したものだ。
メモには誰に何を渡すかという指示も書いてあった。
例えば式村という子にはヘアピンと腹巻だった。千鳥格子柄の腹巻は服の下から覗いても腹巻には見えないだろう。こういうプレゼントの選び方は実に女の子らしい。しかし僕がこれを手渡したら間違いなく変態認定だと思う。
例えば先程会った菅原君には白ハチマキと新品のお面、短ランのセットだった。正直言って娘が何を考えているのかわからない。こんな物をあの男にねだられたのだろうか。後で菅原君を問い詰めなければならない。
最後に出てきたのはシックな赤色のマフラーだった。タグはついていないし、少々編み目が乱雑だ。もしかしなくても手作りであろうことはピンときた。他の物が買い集めた物であるのに対し、これだけは特別な思い入れでもあるのだろうか。僕は苦虫を噛み潰して指示メモに目を通す。これだけは包装品も細かく指示してある。そして、贈る相手の名前。
この二十四年の人生の中、祖父に怒られようとも十和姉に罵られようとも、反省はしてもそれ以上の感情を抱くことはなかった。術者である以上常に心は平静でなければならないと教えられてきたからだ。
だけど、その名前を見たときだけは何かに覚醒しそうになった。
渡さないでしらばっくれていようかとも思ったけれど、頑張った娘の気持ちを踏みにじる権利は父親にはない。
というわけで、僕は渋々そのマフラーを渡しに行くことにした。ただし、精一杯の反抗の証として、宿の前に落ちていた紙袋を同封してやった。その紙袋、何故か「定時直帰」とマジックで殴り書かれていた。なんだこれ。
さて、と僕はプレゼントを抱えて部屋を出た。娘の代わりに配って歩かないと。
人々が集まる森の広場からは談笑の声が聞こえてくる。
空を見上げれば満天の星。
広場の中央の木の上には、ひときわ大きな星が輝いていた。
ENo.965 フェンネル・ロックハート
ENo.965 鬼城 勝
ENo.1329 菅原 命
(ENo.順、敬称略)