七夕はこれといって特別なこともなかった。
どんなに屋外に似た光景が広がっていようとも、遺跡内は遺跡内だった。
光の川も、流れる星も、全ては幻。
まやかしに願うという酔狂な真似もたまにはいいだろうと、戯れに笹の葉に短冊をぶら下げてみた。けれど、こんな歳にもなれば、神にすがりたい願いなんてものもない。揺れる短冊には「世界平和」だとか「お金持ちになりたい」とか、とりあえずそれっぽい言葉が載っている。
願い事は誰かに叶えてもらうものじゃない。自分でつかみとるものだ。そして手が届かない願いなんて、願うものじゃない。
夢も何もない大人になってしまった。自嘲して薄く笑う。
スキットルを傾けながら、本物ではない天の川を眺める。飲み慣れない火酒はすぐに全身を巡り、あっという間に出来上がってしまった。二重にも三重にも見える偽物の天蓋が何故か面白くて、指差しながら笑っていた。
ついでに何か大声で叫んだような覚えもある。
それがつい昨晩のこと。
「ノルくーん、クラストさーん」
わずかに頭痛が残る。飲み慣れた酒が切れていて、たまたま持っていたウィスキーを飲んでみたらこの様だ。慣れない酒は加減もわからないから量を過ぎてしまう。
「ノルくーん」
だけど今朝ばかりは二日酔いだなんてへばっていられない。
面倒そうな顔をした長髪の元竜騎士のクラストさんと、いつもにこやかな眼鏡の学者のノルくん。二人揃ってこっちを見る。顔面蒼白の私にクラストさんが、「また二日酔いか」と呆れた声をかける。
私はそれを首振り否定して、痛い頭を押さえていた手を前方に突き出した。手刀の形で、クラストさんに向けてまっすぐに。
「見てて」
引き金となる言葉はない。ただ念じるだけ。
ただそれだけで。
指先に水流が生まれた。
手から勢いよく飛び出た水流は、直線上のクラストさんの顔に襲いかかった。
水鉄砲程度ならまだ良かったものの、水勢は蛇口いっぱい開いたホースのそれである。クラストさんは頭から腰まで、上半身見事に水浸しになる。長めの前髪は全て後ろに流れ、額が全開になった。
「リン、お前は……」
剥き出しになった額に青筋立てるかと思われたクラストさんだが、訝しげに眉根が寄った。
「これは……酒?」
服の袖に鼻を寄せる。
「うわ、酒くさっ」
クラストさんに顔を近付けたノルくんが仰け反った。鼻を押さえながら、
「リンリンも魔術使えるようになったの?」
どうにも胡散臭そうな目で私を見る。ここ数日、魔法を使うだの使わないのと話していたから、真っ先にそこに考えが至ったのだろう。
「使えるようになったと思いたいけど、残念ながら出せるのはこれだけです」
「うわー、すっごい役立たず」
無表情、無感動、平坦な声音の三段コンボが私の胸を貫いた。否定できないのがまた悲しい。
そう、今朝目が覚めたら手から酒が出るようになっていた。
気付いたのは洗顔の時だ。顔を洗おうとして指先がわずかに酒臭いことに気付き、何だろうと手を開いた瞬間、掌から酒が溢れ出した。それこそ泉が湧くように。それはあれよあれよという間に間欠泉のごとく噴出し、二日酔いの私は迎え酒をする羽目になってしまった。
もちろん混乱もしたし錯乱もした。一時間ほど前は何も手につかず、どうしていいかもわからず、ただへたり込んで手から噴き出す酒を眺めているだけだった。
それが自分の意思でコントロールできるとわかり、そしてここが不可思議な島であることを思い出し、私は私を取り戻した。
そして仲間に報告し、今に至る。
今のところ出てくるのは、どうしても飲めそうにない、度数が高いアルコールだけだ。スピリタスと思えば飲めなくもないだろうが、とりあえずストレートでは無理だった。
そこまで一気に話して一息つく。ノルくんは困ったような顔をしていた。クラストさんは無表情だった。
「……本当に恥晒しだな」
ずっと黙っていたクラストさんがおそろしく冷えた声で呟いた。
そして煙のように姿が消えた。
と思ったら、地面にぶっ倒れていた。真っ赤な顔で。
「クラストさん、お酒に弱いんだよ」
そう言うノルくんも決して強くはない。自分のことを棚に上げているが、クラストさんと似たり寄ったりだ。
「で、その酒魔法なんだけどさ」
「魔法じゃないでしょ」
「じゃあ呪い?」
「誰の?」
二人で深く深く溜息をつく。
「酒飲みが酒を出すなんて洒落にもならないね」
「悪い冗談だわ」
どうしてこうなったのか、まったく見当がつかない。ここしばらくの経過を考えると宝玉を手に入れたのが原因ではないかと推測もできるが、ノルくんはあっさり否定した。
「僕達は何の変化もないでしょ。魔術や呪術を使う僕達が何でもなくて、鈍感なリンリンだけが影響されるってことはないと思う」
私が鈍感というのは魔術的な意味でということだろうから、否定はしない。
「となると、ますます個人的な恨みという線が」
「リンリンは人様に迷惑をかけるほどはしたない酒飲みだっけ?」
「そこは否定したい」
酒飲みには酒飲みの矜持がある。人を困らせるような飲み方をするのは酒の愛好家ではなく、ただの酔っ払いだ。
「呪いだったら解けばいいと思うんだけど」
「肝心の呪術使いがこうだからね」
と、ノルくんは地面を指差す。クラストさんはまだ赤い顔で寝息を立てていた。
これは七夕の呪いではないかという現実離れした結論に達したのは、それから数時間後。クラストさんではない、別の呪術使いに相談した結果だった。