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Day38

「厘子の姿が見当たらないようだが……海に遊びに行ったのか?」
「アルバイトだそうです」
「は?」
続き


 まだわずかに夕焼けが残る浜辺。水平線の上に残る橙色と濃紺の絶妙な色合いに、人々が溜息を漏らす黄昏時。
「昼間はお店ご苦労様……と言いたいところだけど」
 丸いテーブルに突っ伏す数人の男達を見回し、私は別の意味で溜息をつく。
 場所は海の家の半分外に出たテーブル席。
 日中は賑やかだったこの店も夜営業の形態に切り替わった。メニューは食事中心からドリンク中心のものになり、海の家というよりはリゾートバーと言ったほうがいいだろう。席はオープンテラスのテーブルとバーカウンターの二つのエリアに分かれ、それぞれ異なる雰囲気で酒やデザートを楽しめるようになっている。
 私は昼間に引き続き、ドリンク担当としてこの店に雇われていた。
 髪は潮風と強い日差しですっかりごわごわ。無理矢理一つに結ぼうとしても、今の髪の長さではうまくまとまらず、半ば爆発したような髪型になってしまっていた。そんな頭でバーテンダーの格好なんて締まらないので、昼間と同じ水着に、下はパレオを巻いている。
 バータイムになってからまだ間もないが、既に客は入っていた。奥のカウンター席で仲睦まじく語り合うカップルもいれば、店先で花火をしながらビールを呷るグループもいる。
 そんな南国情緒溢れる店内だからこそ、どんよりと腐った男達は嫌でも人目を引いた。
「また随分とこっ酷くやられたもんね」
 大の男が皆グロッキー状態。魂が抜けたような覇気のない顔で、顔を上げる力も残っていない。これが海で遊びすぎたというならまだかわいいものだが、生憎とそんな平和な話ではなかった。
 それぞれ体のどこかしらに痛々しい痕が残っている。それは縛られたような痕であり、焼かれたような焦げであり、殴られたような青痣だった。すわ虐待か暴力事件かと思われそうな有様だが、事情を知れば誰も同情なんてしないだろう。
 彼らは日中、この海の家を切り盛りしていた仲間である。と同時に、不埒にも女子更衣室を覗いていた許し難いド阿呆どもである。
 特にひどく痛めつけられたのは、腹回りが実に豊かに成長した青年である。名前はザン・クロフィールド。この海の家のオーナーであると同時に、一連の覗き騒動の首謀者だった。
 海に放り込まれ、氷の上に座らされ、スイカ割りのスイカになった。聞いた話ではもっと色々あったらしい。そんな地獄を見たというのに生還している辺り只物ではないのだろうが、女性の敵であることには間違いない。この海の家も女性の裸を見たいという一心で作ったらしいのだから実に呆れたものだ。実際、この海の家は覗けるような仕掛けだらけで、ここで着替えなくて良かったと心から思った。被害に遭った女性客の皆様には心底同情する。
 しかしよく考えなくても、紫色のアロハシャツにナンパ口調という時点で充分胡散臭い。こんな人に勧誘されて時給に釣られたなんて、私も危機感足りないかもしれない。
「まったく……これで懲りたらもうしないように」
 強く言い聞かせるも、男共は生返事をするばかり。この様子には私も頭を抱えるしかない。何度目になるかわからない溜息をつき、一度バーカウンターに戻った。
「はいはい、いつまでも湿気たツラしてないで、パーッと飲みなさい」
 そしてまた引き返し、ドカンとテーブルにジョッキを置く。もちろん中には泡立つ黄金色の液体が満たされている。
「せっかく海に来て、飲まないのはもったいないでしょ!」
 胸を張って勢いよく言い放つが、男達は突如目の前に現れた大きなジョッキに呆気に取られている。
 夏と言えばビール。海辺のオープンテラスでよく冷えた生ビールを飲む幸せは、ちょっと一言では表現できない。
「ああ、あんたはまだ未成年だったね」
 まだ魂が帰ってきていないザンの前に、ビールよりも幾分薄い色のジョッキを置く。
「気分だけね」
 見た目はビールのようだが味は全く別物。ジンジャーエールを使ったノンアルコールのカクテルだ。それを見たザンはクワッと目を見開き、乱暴に引っつかんで一気に飲み干した。そして、
「おっぱいのバカヤロー!」
 まったく品のない叫びが満点の星空と漆黒の海に吸い込まれていった。
 それが引き金となったか、他の面々も一気にジョッキを煽る。見ているほうも気分が良くなる飲みっぷりだ。わずかに残る昼の暑さに野外の開放感が手伝ったのか、皆あっという間に出来上がった。
「あそこでアドニスが足をかけなきゃよかったんだ!」
「ザンが大きな声出すからバレたんだって!」
 盛り上がるのはいいけれど、まったく懲りた様子のない反省会が始まった。


「懲りない連中だね」
 賑やかなテーブルを眺めて薄く笑う女性が一人、いつの間にかカウンターに座っていた。腰まで届く長い金髪に、日に焼けたことがないような白い肌。そして幼さが残る少女の顔立ちながら、瞳には理知的な光が宿る。
「あ、お待たせしました」
 私は慌ててカウンターに入り、先付けとしてナッツを出す。
「うるさくてすみません」
「正直言って好ましくはないが、今日だけは特別としておこう」
 女性は読書中だったらしい。掌より幾分大きい革装丁の本をカウンターに載せていた。こっそり表紙の題を見たが、見たこともない文字だった。
「何にします?」
「そうだね、夏らしく清涼感のあるお酒はあるかな?」
 これまで飲んできた酒は数あれど、所詮飲み専である。覚えているカクテルレシピなど数える程度しかない。
「えーと、それではこんなのはいかがでしょう。モヒートってカクテルなんですが」
 モヒートは南米のラムをベースとしている。すり潰したミントの葉とライムジュースを加えたカクテルで、ミントの香りが爽やかな一杯だ。以前ショットバーで飲んだ物を思い出して作ってみた。
 女性はストローに口を付ける。
「まあまあだね」
 不味いと言わないのは可ということだ。
「あー、いつぞやは闘技大会でお世話になりました」
「いい勉強になっただろう」
 苦笑いしか出なかった。ごまかすようにグラスを磨く。
 この女性とは今日が初対面ではない。一度闘技大会で対戦し、ぐうの音も出ないほど叩き潰された。見た目は子供のようだが侮ってはいけない。実際の年齢は見た目通りではないらしい。
「アイラ先生には敵いませんよ」
 女性――アイラ・グラスムーンは薄い笑みを浮かべたまま、また一口カクテルを飲む。
「それにしても意外だな。先生と海って何となくミスマッチ」
「私が海にいてはおかしいと?」
 眉一つ動かさず、どこまでも冷めた目が私を見る。アメジストのような紫の瞳は、綺麗だけれどどこか怖い。心の中まで全て見透かされてしまいそうだ。
「そういうわけじゃないけど、アウトドアって感じでもないなーと」
「いつも研究室に篭っていそうだと?」
「まあ……そういうイメージですが」
「いいじゃないか。素晴らしい自然を堪能する権利は誰にでもある」
 アイラに促されて外に目をやった。
 すっかり日が落ちた海には銀円が映り、柔らかな夜の明かりに照らされて、立つ波も銀に光る。昼の強い日差しがまるで嘘のように穏やかだ。
「よく見ろ」
 言われて目を凝らす。よくよく見れば光を反射していたのは波ではない。
 それは水面を跳ねるトビウオの群れだった。
 羽のように広げた胸びれが月光を受けて銀色に輝く。それが何匹も何匹も夜の海を飛び跳ねていく。離水あるいは着水の音は絶え間なく続き、それだけで一続きの音楽のようにも聞こえる。これだけの群れが一斉に跳ねている様は、そう簡単にはお目にかかれない。
「たまには息を抜いてこの光景を愉しむのもいいじゃないか」
「……ですね」
 グラスを磨く手を止め、しばし大自然の神秘に見入る。遺跡のこと宝玉のことも全て忘れてしまいそうな、息を飲む光景だった。

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