屍。
そうとしか形容できない姿だった。
来島以来、幾多の化け物に遭遇し、屠ってきたが、ここまでおぞましい存在に出会ったことはなかった。
一人の男だ。
埃に塗れ、艶を失った蓬髪。狂気に光る赤い瞳。上半身は何も身に着けていない、裸の体。
それだけならばまだ、ただの人と思えた。
ところどころ男の肉が削げていて、白い骨が見えている。
剥き出しの骨、剥き出しの肉、剥き出しの神経。
肉がない腕が動くわけがない。
肉がない胸で息ができるわけがない。
それでも男は動き、うめき、何らかの意思を宿した眼差しでこちらを見る。だらりと垂れた肉と皮はとっくに腐っているのだろう。映画で見た歩く死体と同じ色をしている。
総毛立つ。
映画の中の話ではない。現実にそこにいる。男はそんな体で動いている。
多少ならば死者の世界を知らないでもない。それでも私の常識を遥かに超えたモノがそこにあった。
これまでもこの島で動く死体を見てきたことはあった。
しかし、それらは魂を持たないただの物体であり、意思も何もない空っぽの人形のような物だった。光がない目に、抜け落ちた理性、反射でしか動かない体。動物や植物以下の朽ちていくだけの存在だったから、躊躇うこともなく討つことができた。
けれど、この男は別だ。
強い光が目に宿っている。それは知性を失った凶暴な光だが、男がただの死体ではないことを物語っている。
果たしてこの男は死体なのだろうか。
生者ならば、何故このような体になってまで生きていられるのだろうか。
死者ならば、何故ここまで生の世界にしがみついているのだろうか。
きっとそれは私の考えが及ぶものではない。本能はそれよりも逃げろと言い続けている。
「ノルくん、クラストさん」
呼んでも返事がなかった。
焦って周囲を伺うが、仲間の姿はどこにもない。いつの間にかはぐれてしまったのか、私は一人になっていた。
「兄さん……早くしないから、……変なの来ちゃったじゃない。」
男は一人ではなかった。狂った男を兄さんと呼ぶ少女もいた。もっとも、この少女の様子も尋常ではない。姿は男よりはマシだが、背中に漆黒の翼が生え、瞳孔は完全に開いていた。
正気なんてものはとっくに失っているようだ。
この島の気にあてられると生物は変容してしまう。
これがその変容の成れの果てなのだろうか。
私もいずれこうなってしまうのだろうか。
それとも、もう既に元の私ではなくなっているのだろうか。
こう考えている私は、かつてと同じ正気と常識と理性の中にあるのだろうか。
「……私達はもっとシアワセにッ!!」
狂気に彩られた少女の声。
獣のような男の咆哮。
私はまだ大丈夫。
手は汗で濡れている。祈るような思いで武器を構え、理知の瞳で不幸な兄妹を睨み返した。