港に着いた彼女がまず発した言葉は、
「なんでお父さんがいるの?」
であり、
出迎えた彼が発した言葉は、
「どうして制服着てるんだ?」
であった。
この遺跡島に滞在して八日目。我が娘、蒼凪零が島に戻ってきた。
零は僕を見るなり、こぼれ落ちそうなほどに目を見開き、
「なんでお父さんがいるの?」
とんでもなく大きな声をあげた。
驚きすぎだろうとは思うけれど、それはこっちの台詞でもある。大学に合格し、無事高校をを卒業したと思っていた愛娘がまだセーラー服を着ていたのだから。
再会の喜びよりも驚きのほうが先に立つ。島に入る人々、出て行く人々。僕と零は、港の二つの流れの間で立ち尽くす。
「……こうしていても仕方がないから移動しませんか」
一緒に出迎えに来た菅原君に促されて歩き出す。お互いに聞きたいことは山ほどあったけれど、頭の整理がつかず、どうにも言葉が出ない。
零が予想外のことに素直に親子再会を喜べないのは仕方がない。まさか自分の代わりに僕がいるとは思ってもいなかったはずだからだ。これは黙っていた僕が悪い。娘のしていることに無断で介入するのは僕としても負い目があって、言いづらかった。たとえ事後になっても、来島を報告すべきだった。
港から遺跡街のほうへ歩き始めたはいいものの、零は僕の二歩後ろをついてきている。どう見ても親子の距離じゃない。僕だって気まずいのはあるけれど、これではどうにも話しかけにくい。
そんな状況を打破しようととりあえず話しかけてみた。
「荷物、持とうか」
「あ、うん」
手を差し出すと零は少しだけ近付いて僕に鞄を預け、そしてまた少しだけ離れた。その有様にすぐ横を歩いていた菅原君が苦笑する。僕は嘆息するより他にない。
結局落ち着いて話せるようになったのは、いつもの部屋に戻ってきてからだった。
かつて零が勉強部屋として借りていた部屋は、今は僕が寝泊りに使っていた。まずはそこに腰を落ち着け、荷を解くより先にテーブルを挟んで差し向かいに座る。
「えーと、まずは合格おめでとうございます。……本当に合格したんだよね?」
「うん。無事、前期試験で合格できました」
零は書類をテーブルに広げた。大学名と学長名、そして合格の文字。合格通知書だ。公印も入っているところから本物の書類とわかる。
「よかった。心配していたんだ」
「応援してくれたみんなのおかげだよ」
笑って胸元から黄色い包みを取り出した。誰かから貰ったお守りらしい。
「これで受験戦争からも解放されました」
頭を下げる。艶やかな黒髪が下に垂れた。彼女にとっては本当に長い一年だっただろう。それに勝ち残れたのは運だけではあるまい。
「それにしても、どうしてまだ制服着てるのかな。卒業したらもう私服でいいじゃないか」
それは、と零は言いづらそうに口ごもる。
「単位も出席日数も大丈夫だったはずだよね。この島に来る前に何度も担任の先生に確認したよね?」
来島に先立ち、担任だけはなく校長とも何度も面談した。僕も仕事の合間を縫ってお願いに行っていた。成績も生活態度も申し分なかったからこそ、一年近くの通学を免除されていたはずだった。
「うん、そこは問題なかったの」
ただ、と零は僕から目を逸らす。
「授業料が未納だったの」
――頭の中が真っ白になった。
「授業料? 授業料って、高校の?」
「そう。授業料が払ってないから卒業が保留になっちゃったの」
「え、だって、銀行口座から引き落としにしておいたはずだけど。生活費や給料の振込みに使ってるのとは別の口座に指定して」
合格通知書の隣に、銀行の通帳が開いて置かれた。一番最後の行、残高欄に刻印された「0」の文字。
「その口座がね、空っぽ」
僕はやらかしてしまったらしい。
「……ごめん」
「ううん、お父さんだけが悪いわけじゃないの。私も忘れてたから」
まったく油断していた。それ用の口座に金を移し忘れていたのだ。あえて口座を分けていたのが裏目に出た。おそらく高校からは督促が来ていただろう。けれど、僕も零も自宅を空けていてそれに気付けなかったのだ。
詳しく聞けば、卒業が保留になった零の身分はまだ高校生。留年ではなく、授業料さえ払えばすぐに卒業資格を得ることができるということだった。しかし、卒業できていないということは、つまり。
「大学は? 卒業できないと入学できないよね?」
「うん。こっちも入学保留にしてもらってる。入学金は半額納めているから、高校卒業してもう半額入れれば入学扱いにしてくれるって。本当はこんな言い分通らないはずなんだけど、事情を説明したらそうしてくれた」
僕は思わずテーブルの上に崩れ落ちる。入学資格が生きているのは幸いだった。合格したにも関わらず、また受験する羽目になったらあまりにも悲しい。
「良かった。良くないけど良かった」
どんなに謝罪しても足りない。この春から皆と一緒に大学生活をスタートできるはずだったのに、それができなくなったのは僕のせいに他ならない。
「帰ったらすぐ支払いに行くよ」
もう一つの口座には十分な残高があるはずだ。精霊協会の登録が抹消になり、実家に強制送還、その後すぐにこの島に来たからほとんど金は使っていない。
「お父さん、わがまま言っていいかな」
俯いていた零が顔を上げた。そしてはっきりと口にする。
「私、もう少しこの島にいたいの」
「そんな無理していなくてもいいんだよ。大学だって始まるし、お金はどうにかなるから」
この島に来ることを許したのはもちろん、財宝があるからに他ならない。日々の慎ましい生活とアルバイトだけでは、学費を捻出するのは難しいからだ。だけどそれは僕と零の二人でどうにかしようとするから難しいのであって、プライド捻じ曲げて実家に泣きつけばどうにでもなる話であった。
零は横に頭を振る。
「今の私はお金さえ払えばいつでも卒業できるし、いつでも大学に行けるでしょ。だったら今のうちに自由な時間が欲しいの。この島の探索、みんなと一緒に最後までやり遂げたい」
僕を見詰める黒い瞳には、とても強い光が宿っている。揺るがない初志貫徹の決意。この子をこういう性格に育てたのは僕だけれど、まさかこんなところでそれを押し通されるとは。
知らず眉間に寄った皺を揉む。思い返せば、この子には苦労させてばかりだった。
零の毎日は学校とアルバイトと勉強の繰り返し。学生らしく部活動でもしたかっただろうが、我が家の状況はそれすら許してくれなかった。決して文句は言わなかったけれど、歳相応に友達と遊びたいという気持ちはあったはずだ。
家庭事情でやむを得ないとは言え、零にも自由な高校生活を謳歌してほしかった。
しかし、零はこの島で大切な仲間を得た。親友もいる。親としては認めたくないけれど、気になる人もいるらしい。そして彼らも快く零を受け入れてくれている。これまで住んでいた町よりも小さなこの島で、零は大きなものを手に入れていた。
日本で同じ毎日を繰り返していたら出会えなかったであろう人達。
この子がこれまでに失ってきた青春がこの島にあるのならば、僕は滞在を許そうと思う。
僕は懐から赤い宝石を取り出した。ただ赤いだけではない。燃え盛る炎を内に宿したような野性的な光だ。握りこむと微かに暖かい。それを零の掌の上に置いた。
「これは?」
「みんなが探している七つの宝玉の一つ」
零の手を僕の手で包み込み、握らせる。
「残り六つ、手に入れて帰ってくるんだよ。家で待っているからね」
娘は大きな瞳をさらに大きくさせて、力いっぱい頷いた。ありがとう、と本当に嬉しそうな声に、僕も自然と口元が緩む。
これまでは零が家で僕を待っていてくれた。
これからは僕が零の帰りを待つ。