いわゆる没ネタ。
◆
――島ではない何処か。
「ねえ、壱哉」
艶やかな白米を口に運びつつ、十和子が聞いてきた。淀みのない箸使いで次々とおかずを取っては食べていくものの、一切声がこもらない。頭の裏側にもう一つ口があるんじゃないかと疑うほどだ。
「ん、何――」
壱哉は真似して喋ろうとして、むせた。慌ててお茶で流し込む。
壱哉と十和子。従姉弟同士で囲む夕餉の食卓。ありふれた家族用のテーブルだが、四人掛けのそれは二人で使うには少し広い。壱哉は自分の隣を横目で見た。いつもなら三人目が座るはずの椅子には誰もいない。
「どうして零は精霊無しで術が使えるのよ」
十和子はその三人目を話題にする。しっかり栄養バランスを考えた和の献立には一切言及しない。文句が出ないのは良いことだとはわかっているが、美味いとも不味いとも言われないのもまた寂しい。
「さあねぇ」
鰹の叩きを頬張って、生姜が多かったことに気付く。夏が近付くこの季節なら、薬味が多いほうが食は進むと思うのだが、薄味を好む従姉の口には合わなかったかもしれない。
「あの子は僕たちとは少しだけ違うのかもしれないよ。精霊を扱う素質はあるのに、自分の精霊はいない。その代わり、人の精霊を操ることができる」
大葉を追加すれば少しは刺激が和らぐかな。そんなことを考えつつ、十和子に答える。
「人のって言ったって、あんたのは私たちのとはまた違うでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど」
箸を止めて背後を覗く。そこには整頓された台所があるだけだ。少し念じると、その風景がわずかに揺らいだ。壱哉の背後にいる精霊の輪郭が三つ、浮き上がって消えた。今は姿を消しているが、精霊たちは求めに応じて現れ、自然の摂理から外れた術を行使する。超常存在の一つだった。
そして十和子もまた、精霊を一つ、背後に潜ませている。
精霊は術者の内側から呼び起こされるものだ。少なくとも蒼凪の家ではそういうことになっている。使役者の本質に近く、ある意味では自分の一部と言ってもいい。だから、精霊を操るということは使役者本人を操るという意味にも等しい。それは到底不可能に近い話だ。
「宵藍たちも元々僕のではないけれど、蒼凪の血に特化されているからね。実質、僕以外の人間には扱えないわけだし、十和姉たちと変わんないよ」
副菜はインゲンの白和えだ。近所の豆腐屋の出来たてを使ったからか、今日は特に美味しくできた。これについてもまた、十和子は何も感想を述べないのであるが。
「十和姉のクライも、もしかしたら零は使えるかもしれない」
十和子の手が止まった。背後から微かに風が吹く。窓は閉まっているにも関わらず。
クライと名付けられた精霊は、壱哉の三精霊ほどの力は持たず、実体化できない。しかし十和子の感情が振れれば簡単に気配を現す。十和子は深く息を吸い、気持ちを落ち着けようとする。
己の精霊を他人が操る。それはアイデンティティの一部を奪われることにも等しい。言いようのない嫌悪感が足元から這い上がってきた。
「まさか、ね」
「あの子はそんなこと絶対やらないだろうけど」
弟分の即座の否定に胸を撫で下ろす。
二人であの少女の成長を八年間見てきた。あの娘は人が嫌がるようなことはしない。父親によく似た優しい子なのだ。
「それで、どうして零は精霊無しで術を使えるのよ」
振り出しに戻った。
精霊、あるいはそれに相当する存在は、術を使うならば不可欠なものだった。ありえない事象、現象を引き起こすなど生身の人間には到底できない。理を捻じ曲げるには世界と接続しなければならない。その抽象存在と自分たちとを繋ぐ導線の役割を果たすのが、精霊だった。
しかし零は単身で島へ渡る際、何らの精霊も伴っていなかった。以前、召喚主たちの冒険に着いていった時には壱哉のところから天藍、海藍を借りていったのだが、今回はまったくの手ぶらであった。
なのに壱哉の話では零はたしかに術を使っていたとのことだった。零の島での仲間がそう証言していた、と。
「さあねぇ」
壱哉は味噌汁をすする。味はまあまあというところか。調理の順は間違えたが、その後の処置でどうにかなったようだ。
「あの島、少しばかり霊力が濃かったから、そのせいじゃない?」
そう能天気に言うのは、十和子の不安を煽りたくないからではなく、何も考えていないからだった。
赤毛の子供は人間だと思い込んでいた。自分たちと同じ、ごくごく普通の人間であると。
しかし、人に似て非なる怪物を従えて魔法のようなものも操る。無邪気ゆえに加減を知らない、超常の力を持つ少女。
これまでもそうだったではないか。たとえ外見がごく普通の人間に見えても、自分たちを殲滅する力を持って襲ってくる。容赦なく、極大の力を叩き込んでくる。
それが、宝玉の守護者だ。
今、零はその守護者とお供に、仲間の少年と二人で立ち向かっている。直に戦うことを得手としない零は後方に下がる、前で敵を牽制する少年の援護に回る。
少年はどこにでもいそうな男子高校生に見えたが、細い身体に見合わないほどに戦いに長けていた。どんな攻撃でもいなし、時には受けながらも耐え、しかし決して倒れることはない。相当にタフな身体をしていた。
零は、少年が拳を打ち込む間隙を縫って、術を打ち込む。だが、正直言って少年に当たらないようにコントロールするだけで精一杯だった。
「――!」
赤毛の子供の手下が放った炎が少年に直撃する。爆風が零の前髪を吹き飛ばす。たまらず手で目を覆う。
「菅原さん!」
ゴーレム――魔法で動く木偶人形の巨体が、その中心地へ腕を伸ばす。舞い上がった埃が治まらず、いまだ少年の姿が見えない。
ゴーレムの腕は太い。鍛え上げたアスリートのそれよりもさらに二回りは太い。あれで捻じり上げられたらたまったものではない。
そしてなお悪いことには、小柄な悪魔がその周囲を飛び回っている。炎球を投げつけた悪魔だ。三角の尻尾に一対の角、蝙蝠様の翼を持ち、おとぎ話にでも出てくるような姿をしている。
悪魔は耳障りな声で陰鬱な歌を歌っている。いや、あれは歌ではない。魔法の詠唱だ。
少年はすでにかなりの傷を負っている。零を庇って受けたものもある。そこに更に攻撃を受ければ――
「ゼロさん!」
青褪める零の耳朶を打つ。
「押さえている、今の内に!」
その声にはっとした。薄っすらと晴れてきた埃の中で、少年はゴーレムの両腕を捉えていた。顔は真っ赤に染まり、力む腕には血管が浮いている。
見れば、少年の足は悪魔の尾も踏みつけていた。たまらず悪魔は尻尾を引き抜こうとするが、少年はしっかり地を踏みしめている。上からのゴーレムの圧力もあり、尾にかかる力は相当なものになっているはずだ。
彼が押さえている今の内に、あれらを術で撃ち抜く。
まさしく今が好機。持てる最大級の力で沈めれば勝ちが見える。だが、
「えっと」
零は戸惑っていた。父から教えてもらった術のうち、三つまでは自在に操ることができた。さほど制御が難しくない術式だったからだ。しかし、それ以上の威力の術となると別だ。複雑な術式を織り上げて展開しなければならない。これまでの三種がシンプルな設計図を一枚描くものだとすれば、その上位は設計図を三枚描いて齟齬がないよう重ねるようなものだ。そういった上位の術式を使ったことは殆どなく、正確さにも自信がない。
――精霊の力をまとめて、八式円陣をイメージして、正位置と逆位置に反属性……じゃなくて対属性だっけ? えっと、どの属性をまとめれば……
導き手たる精霊がいないため、力の配置がままならない。ぐずぐずしているとせっかく収束した力がこぼれていってします。もたついているとそれだけ不利になるというのに。
「ゼロさん、早く!」
ワントーン高くなった声に顔を上げる。少年の足が少しだけ地面にめり込んでいた。人外の力で押されているのだ。目の前で不意に少年の肩膝が折れた。地に膝を着き、それでも耐える。
――術式は
言葉を思い出す。零に魔法にも似た力の使い方を教えた声だ。
――術式はただの形式にすぎない。術者の安心と心の平穏のための呼び水だ。これを身体に覚えさせることで、安定して発動できるようになる。
数学の公式は問を解へと導くもの。そこへ至るまでの手順を簡便化させるもの。しかし、公式を知らずとも解ける問題も存在する。
――本当はこんなの覚える必要はないんだ。力さえ使えれば、そこまでの過程なんで問題じゃない。むしろ過程なんかなくてもいい。
手にした鏡に手を滑らせる。魔の力を封じ込んだ鏡の表面が淡く光を放つ。
――持てる力を解き放つだけだ。
「空術肆式――」
声は自ずと出た。薄く閉じた目の裏側では細かい火花が弾け、頭の中は白に溶ける。
「――《瓏》!」
叫びに近い祈りとともに、光が溢れた。
背筋に走る痛みで目が覚めた。
額に手をやると濡れた布が載っていた。指先で摘んで剥がすと、水色のチェック柄のハンカチだった。真面目なことに、持ち主の名前が縫い取ってある。
それで現状を把握し、少年は微かに笑う。右手には緑色の球体が握らされていた。ひんやりとしたそれは、強く握りこむとわずかに熱を持つ。以前手に入れた二つの宝玉と同じだ。
「菅原さん!」
セーラー服の少女がやってきて、寝ている少年のそばにしゃがんだ。
「よかった。気が付いたんですね」
胸を撫で下ろし、こちらに安堵の表情を見せる。
「どこか痛いところとかありませんか?」
どこがというか、全身痛い。化物の怪力で総身痛めつけられ、打撲だらけだ。
「大丈夫です」
あいまいに答える。まだ起き上がれるほどには回復していないが、言えば余計に心配させてしまう。
「きちんと食わないから倒れたりするんだ」
少女の傍らにはもう一人、仲間が立っていた。少年たちとは別行動だったはずだが、少女が呼び戻してきたのだろう。
「あなたには言われたくないですよ、コルトさん」
コルトと呼んだ仲間もまた、散々な姿だった。あちこち焦げたり腫れ上がったりしている。やはりこっぴどくやられた口なのだろう。
「手を貸すから起きろ。一旦外に出て休むぞ」
「はいはい」
痛む背中を堪えて起き上がり、肩を借りて立ち上がる。もう余力も残っていない。この化物が徘徊する遺跡からとっとと出たほうがいい。
「身体の丈夫さには自信あったんだけどな」
底力すら尽きるまでやりあったのも久しぶりのことだった。最初にこの遺跡に潜った頃よりも敵は強くなっている。これから先もますます手強い相手が増えていくのだろう。
「練習で手を抜かないから本番に影響するんだ」
「手を抜いたら練習になりません」
ぶっきらぼうな仲間にそう返し、自分の左側――借りている肩とは反対側を見た。
「それにしてもゼロさん。ここまで近付けるようになったんですね」
明るく言ったつもりだったが、セーラー服の少女は身体を強張らせ、
「……言わなきゃよかったな」
あっという間に離れて大樹の向こうに姿を隠してしまった。その早さ、まさに電光石火。
「まだ先は長いな」
「色んな意味でね」
身体の痛みも忘れ、少年は何度目になるかわからない溜息をついた。