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父と子の往復書簡・47日目

時計 2008/07/18

 誰の目から見てもそれと明らかであるのに、認めないのは本人だけ。
 己の気持ちに鈍感であるとか、気付いていても肯定したくないとかそういう話ではない。
 初めて抱く思いに戸惑いだけが強くあり、どうしていいかわからなかった、が正解なのだ。

続き


 遺跡の外は今日も晴れ。休憩と補給も終わり、零は仲間たちとの合流地点に急ぐ。快晴の空は名残惜しいが、また遺跡の潜らなければならない。
 待ち合わせの時間が迫っている。携帯電話を開いて時刻を確認し、ついでに十和子に宛てて簡単なメールを打つ。父の従姉への定期報告は半ば義務と化していた。
 しかし、携帯電話を弄りながら歩けば前方が疎かになるもので。
「あ、ごめんなさい」
 何かにぶつかり、零は足を止めた。謝罪の言葉を口にしてとにかく頭を下げ、上げる。けれどそこには誰もいなかった。確かに何かに当たったのに、と怪訝に思う間もなく、目の前に黒い影が飛び上がってきた。
「ゼロゼロぉー」
 黒いぬいぐるみのザッハだった。いつも元気なザッハだが、今日ばかりは様子がおかしい。表情の細かな機微はわからないが、口調もしょげていて、どことなく悲しげなことはわかる。ザッハはいつものように飛び跳ねて、零の胸に飛び込んできた。零は反射的に抱きしめてしまう。
 ザッハはお日様の匂いがする。柔らかな布地の感触が気持ち良くて、つい体を撫でてしまう。いつもならくすぐったそうに身をよじらせるのだが、何故か今日はおとなしくしていた。
「どうしたの?」
 聞いても何も答えない。されるがままに耳を垂れ、零の顔を見詰めてくる。紅玉のような赤い釦の瞳がどことなく曇っているように見えた。
「あのね――」
 ようやく口を開いたところで、
「ザッハ」
 今度は白い影が零の懐に飛び込んできた。零はバランスを崩してよろめくが、辛うじて転倒だけは避けられた。驚いた顔で腕の中の来訪客を見る。左目を眼帯で覆った白いぬいぐるみ、ザッハの相棒のマシュだった。マシュは何事か喋ろうとしたザッハを遮り、
「皆が呼んでるぜよ」
 長く青い腕がザッハの頭を軽く叩く。
「だけど――」
「行くぞ」
 強い口調にやむなくザッハは零から離れた。名残惜しいのか、振り返りながら去って行く。
「どうしたんだろ。何か言いたそうだったけれど」
 いつもと様子が違うことに首を傾げる。零の知っているザッハは陽気な笑い声をあげて飛び跳ねているぬいぐるみだ。元気のない姿は見たことがなかった。
 心配だけれど、着いていくわけにもいかない。今は仲間のところに急がなければならないからだ。それでもやはり心に引っかかるものはあるわけで、零はどうすれば良いかわからず、立ち尽くして戸惑う。そこに。
「ゼロ」
 背後からの突然の声に心臓が跳ねた。とても良く知っていて、今一番、聴きたい声。顔を見ずとも誰のものかわかる。
 振り返ったそこには黒い服があった。思わず後退りして、少し見上げる。
「あ……隼人、さん」
 近い。すぐ目の前に立っている。あまりにもの近距離に一瞬頭が真っ白になった。思わず携帯電話を取り落としてしまったが、拾うこともできずにいた。咄嗟にどこかに隠れようと辺りを見回すが、ここは往来のど真ん中。残念なことに遮蔽物が見つからない。
 人間は想定外の事態に遭遇すると、逃走を図るものだ。零も例外なく、振り切って走り去りたい衝動に駆られる。
「待てよ」
 顔を背けたところを、手を引いて押し留められた。手首を握る無骨な掌の感触は、同じ男性であるはずの父親とは違う。細い手首を包み込むほどに大きく、力強い。
 それだけですっかり頭に血が上ってしまった。気絶しそうな自分を鼓舞して、意識をどうにか留める。話すことはあっても、触れられたことなどほとんどなかった。最後はたしか昨年の夏。浜辺へ向かう途中で転倒しかけたところを支えてくれた、あの時だ。その時は身体を抱え上げられ、本当に意識を失うかと思った。今は手首を掴まれただけのこと。それでも零の意識を奪うには十分だった。
 集中力も注意力も失する。触られたことばかりに気がいってしまい、彼女は相手の体温が異常に低いことに気付かない。
 硬直してしまった零に隼人は苦笑していたが、無言で手の中に何かを捻じ込んできた。冷ややかで滑らかな感触に我に返った。
 何かと思って見ると、赤と青の玉が数珠繋ぎになった組紐の装飾だった。その玉が零が持つ同じ物と共鳴して、羽音のような低い唸りを鳴らす。身体の反応は素直だ。頭で考えるよりも先にそれが何かわかっている。風も吹いていないのに、髪の先がわずかに持ち上がった。
「これ、まさか」
 それは、大多数の者がこの島に来た目的である。
「どうして」
 驚かないはずがない。問うように見上げるが、隼人はやはり何も言わない。全て集めれば莫大な財宝が手に入るとまことしやかに語られる。誰もがこれを追い求め、探索者同士による奪い合いまで起こっていると聞いた。それだけ大事なこれを手放すなど、ありえない。そう、この島にいる限りは。
「目を閉じてくれ」
 傷跡が残る頬を掻きつつ隼人が言う。珍しく照れているようだった。正面切って顔を合わせたことなど数えるほどしかない。最初は怖いと思っていた目も、本当は優しいのだと今は知っている。
 驚きのあまり羞恥すら忘れ、零は真っ直ぐに顔を見詰めていた。
「いいから目を瞑れ」
 大きな掌が零の目蓋の上にかかり、強引に目を閉じられる。突然のことに短い悲鳴を上げ、身体が強張るが、不思議と逃げ出す気にはならなかった。
 そして、額に温かな感触が降りてきた。胸に宝玉の飾りを抱いたまま、しばし時が止まる。どれだけそうしていたのかわからない。一瞬だったようにも思えるし、とても長かったようにも感じる。
 やがて目を覆う重みがなくなっていることに気付いた。零は恐る恐る目を開く。
 爽やかな風の音、夏近く色濃くなった森のざわめき、遠くから聞こえる人々の喧騒、抜けるような青空に浮かぶ柔らかな雲、踏み固められ乾いた遺跡への道。
 そこには遺跡外の景色が広がるだけだ。男の姿は、ない。
 額に触れ、唇に手を添える。
 その意味を察し、零はその場に立ち尽くした。
『“言わなかった後悔”の方がきっと重い気がしますの』
 おさげの魔女の言葉が脳裏で繰り返される。最後に話したのはいつだっただろうか。あの言葉の意味が今、ようやくわかった。
 ただ漠然と、一つの終わりがきたことだけを悟る。
 頬が濡れていた。
 声もなく、この島に来て初めて泣いた。いけないと思いつつも、溢れる涙は止まらない。
 残ったのは無数の思い出と、二色の宝玉のストラップだけ。それらを抱き締める。手に篭る力が胸を締め付ける。立つこともままならずしゃがみこむ。涙で滲む目の先に、大きな足跡が残っていた。
 その人は確かにここにいて、零も確かにここにいた。夢や幻ではない。現実に話し、触れ、初めて特別になった人。

 「今」は永遠に続かない。
 そんな簡単なこと、わかっていたのに。
 この時を予想していなかったわけではなかったのに。

 幸せだった。
 同じ空の下にいるだけで、細々と話せるだけで。
 それ以上を求めずとも、十分に満たされていた。

 たくさんの幸せを貰ったのに、少しでもそれを返せていたのだろうか。


 そして、もういないあの人の幸せを願わずにはいられなかった。