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父と子の往復書簡・65日目

時計 2008/12/09

 島の片隅で文化祭が開催されているその頃。
続き


「ありがとうございましたー」
 客を送り出すと店内はフェンネル一人になった。カウンターに両手をついて息をつく。窓から入り込む日差しは柔らかく、暖かい。外から聞こえてくる談笑の声が実にわかりやすく平和な日常をあらわしている。
 ここは島で唯一のコンビニエンスストア。雑貨店ならば他にもは何軒かあるが、コンビニエンスと言えるほどには品数に富んでいない。品揃えの豊富さとユニークさでこの店の愛好者も多い。
 今でこそ和やかではあるが、今朝方までは戦場だった。開店と同時に制服の集団が押しかけ、ありとあらゆる物を買い漁っていったのだ。客の中に馴染みの顔を見つけて聞くと、島のどこかで文化祭が開催されるらしい。それの買出しであるとのことだった。
 嵐のような集団が引いてしばし経つ。忙しかったのが嘘のようなうららかな午後だ。ちょうど客足も途絶えたところで一息つこうとフェンネルはカウンター後ろの扉を押す。入りがけに振り返り、「誰か来たら呼んでね」と声をかける。
 木製のカウンターの上に座っていた小さな人形が、「まかされたでつ!」と元気よく応えた。フェンネル自身ををモチーフとして作られたコミカルな人形だ。人の手がなくとも動いて喋るので、知らない人が見れば生物と勘違いするかもしれない。
 人形はカウンターの片隅に置かれた商品、瓶詰めセイガさんに話しかけている。その無邪気な姿に不安がないではないが、少なくとも呼び鈴の代わりにはなるだろう。 それに今すぐ客が来るとも考えにくい。本当に驚くほど、店の周りには人気がなかった。
 人形に念を押し、扉をくぐる。
 店内と異なり、小窓しかないバックヤードは薄暗い。幅数メートルの狭い室内には事務作業用の机と、休憩用の長椅子が置いてある。奥には流し台と保冷庫もしつらえてあり、簡単な食事もできるようになっていた。更に置くに見える扉は倉庫に続いている。
 家具は両側の壁沿いに並べてある。机の奥には保冷庫という並びになっているのだが、そこに奇妙な物を見つけた。白くて長い二つの房だ。ちょうど机の天板から生えているように見える。天井に向かってまっすぐ立ち、時折左右に揺れる。
 そんな物、ここにあっただろうか。知らず歩みが摺り足となる。息を殺して近付いていく。
 その奇妙なオブジェはもちろん机から生えているのではない。どうやら机の陰に何者かがいるらしい。目を凝らして見ればどうやら動物の耳らしく、おそらく兎か、その類の獣だろう。
 机まであと数歩というところまで近付いた。それでも件の侵入者は気付いていないようだ。長身を生かし、上方からそっと覗き見る。
 そこで、大きな瞳と目があった。
 紅玉のように赤い目だ。そして暗い中に浮き上がる白い髪に目を奪われる。髪の中から長耳が伸び、揺れている。机から生えているように見えたのはこれだ。
 それは少女なのだろう。自分よりも一回りも二回りも小さい。中華服に身を包んでいる。小さな手が持っているのは銀の匙で、足元には茶色い器が幾つか転がっていた。

 そして白い頭がフェンネルの傍らを、
 彼が目で追うより早く、

「――え?」

 通り抜けて行った。

 銀の匙が床に落ち、澄んだ音を響かせた。
 後に残されたのは、黄乳色の塊がこびりついた陶製の器と、銀色の匙だけだ。
「プリン!」
 いつの間にいたのか、傍らの小さな人形が叫ぶ。その甲高い声に我に返った。
 そう、床に落ちているあの器は、
「とっておきの、プリン――」
 昨日、お客さんから貰った手作りの一品。
 事態を把握すると同時に、全身が沸騰した。滾った血がとてつもない速さで血管をめぐり、脳へと駆け上る。長い指を持つ手が懐の物を掴む。
 彼の中のもう一人の誰かが、ぶつりと何かが切れる音を聞いた。
「――返せぇっ!!」
 身体を反転させ、咆哮とともに懐から銀色の“星”を迸らせる。
 それは流星の如き速さで床上を駆け抜け、侵入者の足首に絡みついた。扉に手をかけ、今まさに出て行こうとしていた身体を引き倒す。小柄な体躯が平衡を失う。
 流星錘という東洋の暗器の一種である。長縄の先端に錘を付けただけの武器で、錘を投擲して攻撃する。自在に操るには相当の鍛錬が必要だが、一度扱いを身に着ければあらゆる場面で役に立つ。例えばそう――盗人を捕らえる時などに。
 しかし、相手もただの盗人ではなかった。顔面から着地する寸前に両腕を突っ張る。ちょうど腕立て伏せの姿勢だ。沈むだけ身体を沈め、そのまま反動で――跳んだ。
 侵入者は天井に当たるか当たらないかというところまで高く跳躍した。フェンネルとの間を繋ぐ縄が目一杯張り詰める。突然腕にかかってきた負荷に足を踏ん張り、フェンネルはこれでもかと縄を引いた。
 そこで唐突に重さがなくなった。
 全体重を支えていた物がなくなり、フェンネルの身体が後ろに傾ぐ。少し長く伸びた前髪の間から、縄が白い物を絡め取っているのが見えた。白い物体は伸びやかに空中に広がり、フェンネルへと迫ってくる。
 少女が履いていたズボンだとようやく理解した頃、それが顔面に着地した。
「もー、てんちょーさんのえっちー」
 開け放たれた扉の向こう、店の方からそんな声が聞こえた。尻餅をついたフェンネルは慌てて立ち上がり、店内へと急ぐ。
 カウンターの上に、幼い娘がしゃがみこんでいた。頭頂から生えた兎様の耳が天井に向かって直立している。膝を抱えた姿勢のまま不満げに頬を膨らませていた。桃色の中華服はワンピースのように裾が長く、幸いにして下着が見えるような作りではない。
「ズボンかえしてー」
 幼い両手が差し出される。フェンネルは、右手に白布を握ったままであることに気が付いた。ゆったりとしたサイズの、子供用のズボンだ。やけに生暖かい点については考えないこととする。
 手に持ったズボンを見て、少女を見た。二人の困惑した視線が交差する。ここに今、事情を知らぬ客が入ってきたら何と思うだろう。
「それよりも先に言うことがあるでしょう」
 返してと言い続ける少女に、フェンネルはきっぱりと言い放った。女児のズボンを剥いでしまったという衝撃に忘れかけていたが、そもそも流星錘を投げつけたのには理由がある。腹に溜まっていた怒りが再び沸き立ってきた。
 しかしまだ鍋の中身はぶち撒けない。フェンネルだって鬼ではない。むしろこの界隈では温厚な性格で通っている。本来の彼は笑顔が絶えない好青年である。ここで素直に謝罪があれば許しても良いとも思っていた。
 なのに。
「しらない」
 兎娘は唇を尖らせてそっぽを向いた。

 本日二度目。頭の中で何かが切れた。

 最大限の譲歩すらも拒まれ、
 ここに、戦いの火蓋が切って落とされた。


 だが、コンビニエンスストアで死闘が繰り広げられているなどとは誰も思うまい。
 そう、今日は文化祭なのだから。


 太陽は山の向こうへ姿を消そうとしていた。
 だんだんと濃くなってくる闇の中、校舎が赤々と照らし出されている。
 校庭の中央には巨大なキャンプファイヤー。祭を締め括る儀式の炎だ。
 陽気な音楽も聞こえてくる。人々が焚き火の周囲に集まり、銘々手を取って踊り始める。
 零は校舎出口の階段に座り、そんな光景をぼんやりと眺めていた。耳慣れたオクラホマミキサーのメロディに、過ぎ去ろうとする青春の影を見たような気がした。
「お疲れさま」
 いつの間にかそばに親友の式村彩がいた。彩は零の隣に座ると、やはり校庭を眺める。スカートのポケットからロリポップを二個取り出して、一つを零に渡した。
「彩ちゃんこそ今日一日お疲れさま。実行委員長、大変だったでしょ」
 まあねと言って彩はロリポップの包みを剥いてくわえた。『巡回』と書かれた腕章を外し、ロリポップの包み紙とともにポケットにしまう。
「まさか盗難騒ぎがあるとは思っていなかったからね」
「犯人つかまった?」
「んー、被害がアレだったから放っておいても良かったんだけどさ」
「トイレットペーパーと予備の制服だっけ」
「うん。少しくらいなくなっても誰も困らない」
「犯人さんて生活に困ってたのかな」
「さあねぇ」
 二人の視線の先ではフォークダンスが続いている。
 オクラホマミキサーは本来男女に分かれて踊るもの。しかし男女比が合わないのか女性の列に男性が混じっているようだ。そのせいで踊り手たちが時折パニックに陥っているのだが、離れている零と彩にとっては至って平和な光景である。
 始まりがあれば終わりもある。もちろん楽しい日々にもある。このフォークダンスが終われば、文化祭も終わる。
「零は踊らないの?」
「彩ちゃんこそ」
 顔を見合わせる。ぼんやりとしていた顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
 どちらが言い出すでもなく二人は立ち上がり、
「じゃ、いこっか」
 校庭に下りていった。