季節は冬。暦の上では冬と春の節目。
コンビニエンスストアの店頭に並ぶ可愛らしい包装が目についた。赤やピンクの包み紙に、ハートの模様。それが何を示しているのかしばし考え、来るべき日のことを思い出す。
遺跡の中では時間感覚を失いやすいため失念していた。
もう少しでバレンタインだ。
ここにはいない、けれど何処か別のところにはいるのであろう男の姿を思い出す。
あげたい人がいる。けれど本人は手の届くところにいない。
胸が締め付けられるような気持ちに襲われ、それでも無理矢理笑みを作り、零は店の戸を押した。
木枯らしに身をすくませ、青いマフラーを巻き直す。
本命がいるバレンタインは幸せなことだったのかもしれない。
時間を見てケーキでも焼いてみようか。父親に手紙を出して、気の効いたレシピを聞こう。
「あ、切手買わなきゃ」
戻ろうとした零の目の前を小さな影が横切っていった。雑貨屋から出てきたそれは、道の反対側、大きな石の影に入っていった。しかし、大きな石と言っても一塊の岩ほどもあるわけではない。せいぜいうずくまった大型犬程度の物だ。小柄な影は全身を隠しているつもりのようだが、頭が半分出ている。そんな間の抜けた姿でこちらの様子を伺っていた。
腕もあれば足もある。人間と同じ姿であるが、子供よりも一回りほど小さい。蓬髪から覗く耳の先は尖っていて、肌は赤みがかっている。寒風吹きすさぶ中、服装は薄汚れた布をまとっているだけだ。
「怪我してるの?」
零の足元には、刷毛で刷いたような赤い痕が残っていた。
言葉が通じるのかどうか怪しいものだが、この島では何故かどんな種族でも意思疎通が図れる。言葉が通じないのはマナに侵されて理性を失った者くらいか。
とりあえず人型をしていれば話せるかもしれない。そんな期待を持って話しかけてみた。しゃがみこんで目線の高さを合わせる。
「怖いことしないから」
笑顔で手を伸ばす。
するとその小さな生物が石の後ろから顔を全て出した。零が「治してあげるから」と手招くと、おずおずと歩み寄ってきた。
やはり人間の子供に近い生物だが、日本の妖怪にも見える。手足が痩せこけているのに、腹だけが丸い。
引きずっている右足を見ると、足首の辺りが赤く腫れていた。どこかで転んで捻ったのだろうか。
剥き出しの肌はあちこちに擦過傷ができている。まだ傷が塞がっていないようで、ところによっては血が滲んでいた。背中には何かで打ちつけたような痣もある。
「ひどいなぁ」
零はスカートのポケットからハンカチを取り出した。買出しの紙袋の中から水のボトルを出し、それを湿らせる。それを差し出すと、小さな妖怪は一歩後ずさった。
「血を拭くだけだから」
妖怪は零の言葉がわかっているのだろうか。一声かけるとおとなしくなり、顔を差し出してきた。軽く拭ってやっただけなのに、驚くほどに綺麗になった。かなり埃で汚れていたようだ。
「一度お風呂に入ったほうがいいかも」
そう言って零は苦笑したが、妖怪は小首を傾げているだけだ。風呂という言葉は通じていないらしい。
「少し綺麗になったらから、次は怪我を治そうね。えーと、治癒の符はこれだっけ」
ポケットを探り、小さく折り畳んだ紙を出した。薄い紙を注意深く広げる。治癒の術を封じた符だ。来島の際に父親から貰った物の一つで、もしものためにと取っておいていたのだが使う機会がなく、半ば死蔵品と化していた。
端が少しだけ切れているが、まだ使えるだろう。紙を広げて妖怪の頭に載せる。
と、その時初めて、妖怪の頭に小さな角が一本生えていることに気が付いた。髪に埋もれてしまっているが、ごく短い象牙色の角だ。まるで日本の子鬼のような。
触ろうと手を伸ばすと、子鬼は嫌そうに首を振った。
「あ、ごめんね」
改めて術符を頭に載せる。不思議そうにこちらを見上げてくる子鬼に、
「こうやって手を合わせるの」
胸の前で両手を合わせてみせる。すると、子鬼も零を真似て手を合わせた。
「でね、治れーってお祈りすると治るんだよ」
半開きの口が、「何言ってるんだお前」と言いたげだった。
「信じることは大事なの」
そんな子鬼の視線も意に介さず、零は手を合わせたまま目を閉じた。精神を集中し、穏やかながら真剣な顔で祈りだす。そんな少女の様子に、最初は半信半疑だった子鬼も、観念したのか目を閉じた。
するとどうだろう。術符が淡い光を放ち、やがて子鬼の全身を包んでいった。光が傷を撫でると、後には滑らかな肌が現れる。
零の治癒術には「信頼関係」が必要だった。相手の体内に作用する術だ。対象が自分を信頼し、受け入れてもらうことで始めて術が完成する。
子鬼の全身を舐めた光は地面に吸い込まれて消えた。
「ん、これで大丈夫だね」
符は妖怪の頭上で砕け、霧散する。子鬼は腕を上げ、股を覗き、小さな身体全てを点検する。傷が全て消えてしまっていることに驚いたのか、キーキーと甲高い声で零に何事かを訴えかけてきた。零には子鬼の言葉はわからない。ただ笑顔で頷くしかなかった。
やがて子鬼も伝わっていないと気付いたのか、零に向かって小首を傾げてみせると、茂みのほうへ走って消えた。もう、足は引きずっていない。
しゃがみこんだまましばらく茂みを眺めていたが、
「そうだ、切手買いに行くんだった」
思い出して零はコンビニエンスストアに引き返す。切手を買い、店を出ようとしたところで店長に呼び止められた。
「蒼凪さん、ちょっと待って」
店長が零の持つ紙袋の中に平たい紙袋を入れた。
「あげる」
「これ、なんですか?」
白い袋に梅とおかめの絵柄があしらってある。この島ではなかなか見かけない、けれど日本にはありそうなおめでたい絵柄だ。
「福豆」
「福豆?」
「そ。セツブンだから入荷してみたんだけどね。そんな習慣知らない人多くて、売れ残りそうなんだ」
ああ、と納得した。バレンタインの前にやってくる節目があったではないか。あの傷ついた子鬼が何に追われていたのか理解して、零は小さく頷いた。
春が近い。