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父と子の往復書簡・56日目

時計 2008/09/25

 昔のことだ。

 まだ背丈も充分でなかった頃。
 扉から覗いた先、台所で父親とその母、つまり祖母に当たる人が夕餉の支度をしていた。
 鍋をかき回す祖母の隣で、父はざるいっぱいの絹さやの下ごしらえに取りかかっていた。思い出の中の台所は茶褐色一色に変容していたけれど、鮮やかな緑だけは目に残っている。
 そう、朝に裏の畑で採ったばかりの絹さやだ。あまりにもの量に目を見張った覚えがある。父はあれを全て処理しようと言うのか。幼い目にはそれは険峻を登るより困難で、深海の底を目指すより終わりがない、途方もない作業に見えた。
 果敢に山に向かう父を手伝おうと、隠れていた扉の陰から出ようとしたところだった。
「やっぱり心配なんだよね」
 絹さやの筋を取りながら父が言う。
「あの子、変なのに目をつけられやすいから」

 あれは、何歳のことだっただろうか。

続き


 バスを待っていた。
 屋根とベンチがあるだけのバスステーションに独り。長いベンチの端に腰を掛けて待つ。ところどころ色が剥げたベンチは年代物だがまだ十分実用に耐える。
 見上げれば鉛色の雲が垂れ込めている。手元に傘はない。膝に載せているのは学生鞄と体操服を入れた袋だけだ。一雨来そうな空に不安を抱き、早くバスは来ないかと道の左右を見る。
 民家もなく、店もない。見渡す限り新緑の田園が広がる。農業道路で真四角に区分けされた田圃の中で若い稲が揺れている。田圃の向こうには若緑に染まる山があった。
 そこは周囲を山に囲まれた盆地だった。右の道は一直線に、左の道は蛇行しながら山の中へと続いている。道の先は暗くて見えない。鬱蒼とした森に吸い込まれている。
 のどかな風景とはこのことを言うのだろう。誰もが郷愁を覚えずにはいられない、在りし日の日本の姿だ。

 知っている。
 この場所を、知っている。

 幼い頃に父親と何度か訪れた。
 バスはここが終着点だった。ここで折り返し、元の場所へと戻っていく。他の乗客は見たことがなかった。ここまで来る必要がないのだ。せいぜい山を一つ越えた向こうにある集落までで皆降りる。
 バスは二人をここに置いていく。そして降りた後は山へ向かって歩く。
 父と手を繋ぎ、蒼凪の本家へ歩いて行くのだ。

 ――ああ。
 これは夢だと思った。
 夏の制服を着てこのベンチに座る自分はありえない。
 ましてや独りでここにいることもありえない。

 蒼凪の本家は自分を待ってなどいない。受け入れるのは父親だけだ。
 父親は、幼い自分を独りで家に残せないからと連れて行くけれど、屋敷には入れない。いつも本家の屋敷より手前にある別の家、父の両親が住まう家で待たされる。
 子供心にそれを不思議に思いはすれど、寂しく思うことはなかった。そして大きくなるにつれ、不思議に思うこともなくなった。

 夢の中で独り、バスを待つ。
 もう一度空を見た。風が出てきた。雲がうねりながら流れていく。嵐を察して山へ帰ったのか、鳥の鳴き声一つしない。
 バス停の時刻表は真っ白だったけれど、不思議と不安はなかった。待っていればいつかバスは来るし、自分はそれに乗る。乗って、父が待つ小さなアパートに帰る。
 それだけのことだ。

「さて、どうだろうね」
 不意の声に顔を上げた。ベンチのもう片方の端に“それ”が座っていた。
 切り揃えた黒髪、男子にしては白い肌に細い顎、そして白い着物に黒い袴。この顔はとてもよく知っている。この声もとてもよく知っている。
「お父、さん?」
 これから帰る先で待っているはずの人だった。
「残念ながら私は君のお父さんではない」
 “それ”は父親の顔で、父親が決してしない笑い方をした。狐のように目を細め、口角を吊り上げる。皮肉られているとしか思えない、人の心を逆撫でするような笑みだ。
「君を安心させるためにお父さんの姿を借りているだけだ」
 薄刃のように鋭利であり、首の裏を撫で上げるような低い声だ。本物の父親はこんな喋り方はしない。
「どなたですか」
 鞄を胸に抱く。そんなことをしても自身は守れないとわかっていても、身は自ずと自衛に働く。
「私は誰でもあり、誰でもない」
 詰問口調にも動じず“それ”は悠々と答える。狐目がこちらを見たが、糸のように細い目の奥までは見えなかった。

「君は何故未だこの島に留まる?」
 喉が、渇く。
「それは、宝玉を集めるためで……」
 枯れた声を、絞り出す。
「何故宝玉を集める?」
 言葉が、詰まる。

「学費のために財宝を探し求める。まだ若いのに健気で結構なことじゃないか。名目としては上々。皆の同情、憐憫、温情、哀憐、厚情、全てをかき集めることができる」
 芝居染みた動きで両腕を広げて見せる。嘆き悲しむように我が身を掻き抱き、大仰に嘆息した。その滑稽な姿のまま、首だけをこちらに向ける。
 口元はあの狐の笑みを浮かべている。
 似て非なる、別の誰か。
「しかしそんなのは口実に過ぎないのだろう? もう学費の心配がないことを、君自身がよく知っているのだろう?」
 言葉は鋭い刃物となり、深く深く心臓を抉る。半端に開いた口が渇く。舌先で唇を湿し、そのまま下唇を噛んだ。狐目から顔を逸らす。
 そのくらいわかっている。誰よりも自身がよく知っている。

 蒼凪の家からの援助。
 奨学金の審査の通過。
 学費免除の特待生への採用。

 半年前まで積っていた問題は、今やきれいに消えていた。

「君はこの島にいたいから宝玉を求めていると口にしているだけだ」
 父親の顔の“それ”は腕を組んで空を見た。つられて視線を空に転じる。
 重たげだった雲からついに雨が降り始めた。絹のような細い雨はさほど待たずに大粒になった。トタンの屋根を強く叩き、水流となって二人の前に滝を作る。
 ところどころアスファルトが割れた道が黒く濡れる。轍に雨が溜まって小さな川を作る。
 ベンチに座る二人の足元へも水が流れてくるが、箱型のバスステーションには敷居があった。横たわった木材が流れを堰き止める。
 しかし雨など大した問題ではない。たとえここが夢の中であろうとも降る時は降る。
「真に欲しいものはなんだ?」
「欲しい、もの?」
 朗々とした“それ”とは対照に、自分の声は雨音に消え入りそうになっていた。
 しばしの沈黙。
 雨は屋根と地面を強く叩く。
 沈黙を破るのはこちらの役目ではない。答える義務もない。

「男か?」
 心臓が跳ね上がる。
 逸らしていた目を強引に向けさせられる。
「消滅した男を取り戻したいか?」
 父親の顔をした“それ”はくぐもった声で笑った。
「この不思議な島の不思議な宝玉。全てを集めれば願いが叶うかもしれない。それだけの力は持っているからな。身体の一部が魔力で構成されたあの男も、帰ってくるかもしれない」
「そ――」
「だが」
 今にも出かけた叫びを遮る。
「それすらも口実だ」
 言葉を飲んだ。
「自分自身を正当化するための言い訳にすぎない」

「君が求めているのは純粋な力だ」
 淀みのない声。
「空っぽな身体を満たすための力だ」
 雨音が聞こえない。

 “それ”は携帯電話に下げたストラップを指す。そこには数珠繋ぎになった赤と青の玉が並んでいた。
「宝玉は四つ揃った。残りは三つあるが、それでも十分だ。どうだ? 自分の中が満たされていくのがわかるだろう?」

「違う――」
「素直になれ」
「私は、違う」
「君は“そういう風”に作られたのだ」
「違う!」

 割れんばかりの頭痛。
 無いはずの記憶が疼く。

「全て揃った時、君はどうなるんだろうな」


 それがたとえ悪夢であろうとも、
 醒めない夢はない。


「ゼロさん?」
 震える肩を抱く。青褪めた顔で仲間を見上げようとしたが、正面から見られない。俯いたまま頷く。
「私は、大丈夫です」
「うなされていたんですよ? それにそんな顔して、大丈夫なはずがないでしょう!」
「本当に、少し休めば大丈夫ですから」
 そう言って近くの壁に背を預けてしゃがみ込んだ。
 叱責する仲間の声が遠い。世界は紗をかけたように見え、聞こえる音はこもっている。今にも心が身体と分離してしまいそうだ。
 震えが治まらない。寒くもないのに足元が冷えていく。
 胸ばかりが熱い。たまらず懐を掻き毟り、服のポケットに入れてあった物をばら撒いた。砂の上に落ちた四色の宝玉は変わらぬ光を湛えている。
 そして宝玉ではない物も転がり落ちた。

 背筋を走る悪寒が抜けていった。
 あれほど重く圧し掛かっていた“何か”が消えた。

 大きさとしては宝玉と同じくらいか。黄色い布で作られた匂い袋だ。中には乾いた葉が詰めてあり、鼻を近付ければ漢方のような香りがする。
 入学試験に向かう際、合格祈願のお守りとして貰った物だった。
 気弱な性格にはお守りがよく効いた。試験会場では今までになかったくらい緊張したけれど、懐に入れているだけで勇気付けられたように感じた。それがこのお守りの護符としての効果なのか、自分自身の気の持ちようなのかはわからない。
 だが、なんとか合格できたのもこのお守りを始め、色んな人からの応援があったからだと思う。
 本来ならば役目を終えたお守りは神社に収めるべきなのだろうが、こればかりは思い入れが強すぎた。どうしても手放すことができず、試験が終わってからも厄除けのつもりで持ち歩いていた。

 お守りを手に取る。
 匂い袋の底は少しだけ破けていた。