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父と子の往復書簡・63日目

時計 2008/11/14

 ある昼のこと。
 闘技大会の控え室そばの食堂で、菅原は昼食のうどんに向かい合っていた。続き
 大会の参加者用に設えられた食堂は、どこぞの学食かと思うようなチープな店舗で、メニューも定食やら麺類やらが並ぶ。初めて入った時はここは日本かと唖然としたものだ。しかし、カウンターで半人半獣が注文しているのを見てやはり日本ではないことが知る。
 そこでうどんを頼んで席に着いたのがつい先ほどのこと。
 メニューにあったうどんは素うどん一品だけ。釜揚げもなければ煮込みもない。ましてやカレーうどんもない。普段は遺跡を探索している仲間が大会に出場しないのは、カレーうどんがないからという噂だが、本当のところはわからない。
 もっとも、こんな島で本格うどんなど期待できるはずもない。菅原はわがままも言わずにおとなしくごくスタンダードな素うどんを注文した。
 卓上にあった七味唐辛子を、これでもかとかけた。懐からマイ箸を取り出して手を合わせ、行儀良く「いただきます」と言ってからうどんを一本啜る。そこで、
「だーれだ」
 突然目の前が暗くなった。
 そして背中に生温かい感触。
「すがーらさんてばー」
 うどんを一本口に垂らしたまま瞬間停止。
「ねーねーねー」
 視界が明るくなったり暗くなったりを繰り返す。目蓋に触れる柔らかな毛皮の感触がむず痒い。心なしか頭も重い。
 だが、菅原はそんなことには動じない。
 これが女性のふくよかな胸だったら男心にときめきも覚えただろうが、残念ながらこの胸はシーツのように薄く、どこまでもフラットだった。あばら骨さえ浮いていて、本人に同情すら覚える。それが更に菅原を冷静にする。
「……メイちゃん?」
 うどんを啜り上げ、空いている左手で毛皮をよける。眼前には白くて長い動物の耳が垂れ下がっていた。
「あったりーなのよー」
「ぐぇ」
 首を絞められ、口へ運んだばかりのうどんがこぼれた。
子供の細い腕でもぶら下がると相当の力となる。顔を赤青に変化させながら、ギブアップとばかりに桃色の袖を叩く。
「もー、すがーらさんてばだらしないんだからー」
 絞める力が緩まり、眼前に逆さまの少女の顔が現れた。
 年の頃は十歳かそこら。黄色人種系の肌色に、白髪とは異なる艶の真っ白い髪。虹彩は宝石のように赤い。そしてその頭頂から長い兎の耳が一対、今は重力に従って下へ垂れている。先ほど菅原の目を覆ったのもこの耳だ。
 少女は菅原の背中からよじ登り、頭上から顔を見せたのだった。少女一人を頭で支える菅原の首周りの頑強さも相当だが、平気で人の頭によじ登る無邪気さも相当である。
「……何の御用でしょうか」
 まだ半分もうどんを食べていない。さっさと用件を聞いて済ませないとのびてしまう。
 それまで笑っていた少女は表情を引き締め、
「れいちゃんのすきなひとってどんなひと?」
 と聞いてきた。
 『れいちゃん』とは少女の友人であり、菅原の遺跡探索仲間の女子高校生のことだ。
「それをどうして僕に聞くんですか」
「ゼロパパがおしえてくれないから」
 あー、と思わず半笑いになる。
「壱哉さんは教えないだろうね」
 件の少女の父親なら面識がある。あの若い父親は、娘の想い人のことなど口にもしたくないだろう。子煩悩が行き過ぎた挙句、極度に男性を近付けないという大人気ない性格なのだ。
 それが彼女の男性恐怖症の要因になっていて、菅原の悩みの種でもあるのだが、それはまた別の話。
「すがーらさんならしってるでしょ? どんなひとなのー?」
「どんなと聞かれても……」
 彼女がそれらしき男と一緒にいるところは見たことある。だが、はっきりとは覚えていない。ただ知っているのは、その男はもうこの島にはいないということだけだ。
「僕より背が高くてガタイも良くて、目付きが悪――眼光が鋭かったってことくらいかな。壱哉さんとは反対」
「ふーん。そいつ、れいちゃんなかしたりしなかった?」
「そんなの、僕が知るわけないでしょう」
 幼いくせに、色恋に興味はあるらしい。お前にはまだ早いと言わんばかりに、箸の頭で少女の額をつついた。
「はいはい、うどん食べるんだから退いて」
 逆さまの少女の顔が消えた。肩についていた足の重みも消える。どうしたのかと思う間もなく、脳天に重圧がかかってきた。これまでの非ではない。
 さすがに我慢ならず、圧し掛かってきているそれを排除しようと手を伸ばしたところで重みが消えた。
「すがーらさんはすきなひといないの?」
 顎の下から声がした。両頬に白くて柔らかいものが触れている。
 膝と胸の上の生温かい感触に目を見張る。少女が頭を菅原の胸にもたせかけ、見上げていた。いつの間に膝の上に滑り込んだのだろう。少女は何が楽しいのか、やたらと目を輝かせている。
 思春期前の痩せっぽちの体と見ていたが、よく動くだけあって、実際はほどよく肉がついている。それでいて筋張っているわけでもない。少し高めの体温が心地よい。そして柔らかい。
「すがーらさん?」
 完全に不意打ちだ。膝の上に座られ、菅原は固まってしまった。
 日頃の傍若無人な振る舞いにすっかりどうでもよくなっていたが、この娘も一応は女の子なのだ。こんな子供相手に悔しいけれど、一瞬だけ、戦いに明け暮れる殺伐とした日々を忘れた。
「いないの?」
「い――」
 いるわけないでしょう、と言葉を搾り出そうとしたところで、少女が笑った。底抜けに明るい笑顔だった。
「メイはすがーらさんだいすきよ?」

 頭の中が真っ白になった。

 十七年。
 十七年生きてきた。
 その中で何度、女の子に「好き」と言われただろうか。
 冷静なもう一人の自分が、「あの兎娘だぞ!」とか「まだ子供じゃないか!」とか「それは恋じゃない! 好意だ!」とか叫んでいるが、頭の中の草原は少しずつ花が咲き始めている。

「おいしそうだから!」
「だから俺は食用じゃないからぁぁーーっ!!」
 鼓膜を撃ち抜いた言葉の弾丸に、反射的に叫んだ。
 膝が軽い。温もりもない。
 胸の中から少女の姿が消えていた。
 半分まで草原を覆った花畑が一気に散った。我に返る。
「ごちそうさまなのよー!」
 遠くから聞こえるのは、すぐそばにいたはずの少女の声。
「って、うどんーーーー!!!」
 目の前にあったうどんも、麺一本残さず消えていた。

 現実の厳しさに涙を拭いつつ、菅原は空っぽになった丼を下げに立った。