それは冬の到来を予感させる、実に寒い日の午後だった。
まだ木に葉が残っているというのに、ラジオは降雪の可能性を報じ、隙間風は木枯らしのように身を冷やす。足元から忍び寄る冷気に、たまらず奥の間を抜け出した。
奥の間から離れると家主がうるさい。台所への道を、足音を立てないように歩く。まだ日は空にあるけれど、この寒さだ。梅酒のお湯割りくらい飲んでも罰は当たるまい。
「……」
外庭沿いの縁側を、背を丸めて歩いていたら一人の青年と目が合った。いまひとつ垢抜けない髪型に、痩せた体に白い肌。顔は悪くはないようだけど、正直言って男性としての魅力に欠ける容姿だった。
庭に佇み、そいつは阿呆のように口を開けてこちらを見ている。たしかに、この現代において和服で生活する女というのも珍しいだろう。まして、この気候なのに白衣に裸足という薄ら寒い格好だ。
一瞬、様々な言い訳が頭の中を巡ったが結局言葉にならなかった。
「……」
どことなく青年に見覚えがある。
「厘ちゃん?」
あっちはこっちの名前を知っていた。しかもちゃん付けとか馴れ馴れしい。
目を細めてじっと見る。随分と悪い目付きになっていたと思うけれど、構わない。
「あの、僕、壱哉なんだけど」
おずおずと青年が名乗った。
「壱?」
「うん」
「あの泣き虫で弱虫で小さかった壱?」
うん、と弱々しく頷く。背はひょろ長いくせに女々しさすら感じる。それが記憶の中の従弟の面影と重なった。
「十年振り?」
「うん、そのくらいになるかな」
声も太く、大人の男のものだった。身長は頭一つほど高い。名乗られなければ気付かなかっただろう。幼い頃は逆につむじが見えるくらい小さかったのに。どんな人間でも成長するものだ。
「あんた随分と長くなったねー」
「厘ちゃんは変わらなブフォ」
間髪入れずの中段蹴りが綺麗に肋に入った。鈍っているわりにはそこそこクリーンな当たりだった。
「女には綺麗になったねって言うものよ」
しゃがみ込み、呻く壱哉を見下ろす。何故かこの従弟だけは見上げるのが気に食わなかった。涙目の壱哉はこちらを見上げてくる。これでいい。
「厘ちゃんは何でここに? 十和姉から就職したって聞いたんだけど」
そういえば壱哉は昔から姉と仲が良かった。こっちはもう十年も連絡無しだったけれど、姉は壱哉にそれなりに話していたらしい。
しかし、就職した後のことは聞いていなかったようだ。
「まあ色々あってね。仕事は辞めて、今は爺に監禁されてる」
「か……」
生真面目な青年は絶句する。たしかに監禁と言われたら反応に困るだろう。
「奥の院のあれ。滝。あれの監視」
「ああ、あれ」
さすが本家出の人間は話が早い。実際は家から出られないだけで、常時監視の目があるわけではない。面倒なお役目の任を仰せつかり、日々勤しんでいるというわけだ。
ただ、便利な現代生活に肩まで浸かった身には、古からのお勤めは退屈極まりないものだった。日の出と共に起きて、夜が更ける前に寝るという生活。原始人と同じだ。健康と言えば健康なのだろうけれど、生憎と不健康生活大好きな自分には苦痛でしかない。
「ネットもない、携帯もない、最低最悪の環境よ。つまらなすぎて死ぬ」
圏外だから携帯電話が使えない。回線なんかないからインターネットもできない。おまけにテレビも電波の入りが悪くて、外界の情報はラジオと新聞に頼っている始末だ。
「死ぬって……」
げんなりと従弟が言う。そんな大げさなとでも言いたげに片手を振る。
耐えられないから衛星電話持ってきて、と言いかけ、壱哉の後ろにまだ誰かいることに気付いた。壱哉に目線を合わせていたため、視界に入ってこなかったようだ。
その子はセーラー服にマフラーを巻いた女子高校生だった。壱哉に負けず劣らず地味で大人しそうだ。戸惑っているのか、硬い表情でこちらを見ていた。
「で、そっちの子は誰? あんたの彼女?」
「まさか」
と、二人で思いっきり首を横に振る。まったく同じタイミングで。
「厘ちゃんはまだ会ってなかったっけ。娘の零です」
初めまして、と女の子が頭を下げる。
「むす……」
今度はこちらが絶句。寒さも忘れた。一拍置いて、短い悲鳴が喉から出た。
「い、いつ作ったのよ!? え、ちょっとそれ犯ざ――」
「人聞き悪いよ!」
焦った壱哉が口を塞いできた。
「養子です、養子。蒼凪の血は流れてません」
庭から家を伺っていたのも合点がいった。
蒼凪の血が流れていない者はこの家には上がれない。もちろん、正面の門もくぐってはいけない。そういう掟だ。それが他家の長であろうとも例外ではない。余所の人間は外庭の片隅にある通用門から入ってくる。
「それで、お爺様呼んでくれるかな」
「はいはい。精々ぶっ飛ばされないようにね」
女の子に手を振って、人を呼びに奥に戻る。梅酒はとっくに諦めた。ここで爺さんに鉢合わせたらまた説教だなーとか、お手伝いの人誰かいないかなーとか、保身ばかりを考える。そんな身の浅ましさに苦笑しつつ、元の生活に戻りたい、と呟いてみた。
凡人には凡人なりの生き方がある。蒼凪の生き方も、一族が背に負っているモノも、私には荷が重すぎた。
早く解放されたいとは願ったけれど、この時はまだ、あんな島に行くことになるとは思ってもいなかった。