「まったく、この忙しい時に厘子はどこ行ったんだ」
「病院行くって言ってましたよ」
「は?」
クラストさん、今頃怒ってるかな。ごめんなさい。
人でごった返す市場を早足で歩きながら、心の中で手を合わせる。取引の手伝いを抜け出してきたのは本当に申し訳なかった。
遺跡を出れば、大量の素人商売人が待ち受けている。彼らは皆招待客だ。遺跡の中で手に入れた素材や己の技術を持ち寄り、それらを売買している。
ここ、木漏れ日の下の取引所はその主要市場だった。ここでは大量の取引材料の中からより良い物を獲得しようと、鮪市場も真っ青な猛烈なやり取りが繰り広げられる。もちろんノルくんもクラストさんも毎回鬼のような形相で青空市場を駆け回っていた。息をつく暇もない、まるで戦争のような取引。手も足りない、時間も足りないとあの二人ですら愚痴をこぼす。
なのにそれをサボタージュしているんだから申し訳ないと思わないはずがない。私がいても役に立たない気がしないでもないが、二人にとっては猫の手も借りたいほどなのだ。
だが、こちらにはこちらの事情があった。
実に五日ぶりの遺跡外だった。本物の太陽の光をたっぷり浴び、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。遺跡の中がまるで外のようであるとは言え、やはりどこか閉塞感がついてまわっていた。
「リンやないか。一杯どうだ?」
と、屋台の軒先から顔を出して、釣り目の少年が空の手をくいっと傾けた。
もちろん彼も招待客の一人だ。一仕事を終え、昼酒と洒落込んでいるらしい。戦利品が詰まっていると思しき袋を脇に抱えていた。
見た目はまだ十代の少年だが、何百年も生きている妖怪らしい。だから酒を飲んでも問題ないとは本人の言。ちょっとした縁で知り合って、今では飲み友達のような関係になっていた。
「ごめん、ちょっと用事あるから」
手を合わせて謝ると、彼は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「何や酒好きが珍しい。つれないなー。今日は一日外に居るから声かけてや」
「ありがと。また後でね」
せっかくの遺跡外。コンビニや居酒屋など行きたいところはたくさんあった。けれど、今日はそれらを後に回してでも行きたいところがあった。会いたい人がいた。
市場の入り口近く、とある露店でその姿を見つけた。食料を買い込むその背中に声をかける。
「グレンさん――!」
手から酒が出るようになった。
それから十日ほど経っているが、携帯端末にはその情報だけは入力しなかった。
これまでの探索生活最大の事件ではあるが、この扱いに困る能力は従兄弟にだけは知られたくなかったのだ。あの意地悪な従兄弟の反応は、きっとクラストさんやノルくんの比ではないだろう。
なのに。
『何かあったか?』
いきなりの電話は第一声がそれだった。元より挨拶なんて愛想は振舞わない男だ。突然の電話にもいきなり用件から切り出すのにも驚きはしないが、今日ばかりは思わず身構えてしまう。何しろ、手から酒が出るようになってから初めての電話だった。
「はい?」
冷え切った声に狼狽を悟られないよう返したが、
『島生活での体調の変化を見るため、お前のバイオリズムは常時記録している。それに変化が見られたのだが』
従兄弟は何でもお見通しだった。
従兄弟から借りてきた携帯端末には、よくわからないソフトがたくさんインストールされていた。私にとってはブラックボックスでしかなく、じっくりと中を見たことはなかったが、所有者の状態をモニターする機能も備わっていたらしい。
そんなことできるわけないと悔し紛れに言ってみたら、従兄弟は私の起床就寝、食事の時間までピタリと当てた。脈拍数と体温、呼吸数その他諸々のデータを随時自動送信しているとのことだった。
この島を観察、調査していた私自身も観察対象だったらしい。この端末を捨てない限り、奴の監視から逃れられないようだ。
手抜かりない従兄弟に感心半分呆れ半分に息をつき、手から酒が出るようになったこと、今のところ魔術由来ではないらしいことを告げた。
簡単な報告が終わると、電話の向こうがしばし沈黙した。従兄弟は脳味噌が機械化しているのかと思うくらい思考が速い。考え込むことも滅多にない。どんな反応が返ってくるかと密かに期待してみたが、再び聞こえてきた声は実に淡白なものだった。
『さすがにその現象はわからんな。お前の手から酒を出す必要性もわからん』
湯水ならともかく、酒を出す術者なんぞ聞いたことがない。そう言った。私もそんな話は聞いたことがない。だから困っているのだ。
『一応病院行っておけよ』
「私が心配?」
『ああ、貴重なサンプルとしてな』
見えないのはわかっていたが、携帯端末に中指を立てて見せた。
『会社員時代の健康診断結果を送っておくからそいつと比較しろ。それが魔術や呪術的な物であれば、身体のほうにも何らかの変化があるはずだからな』
言い終わるかどうかというところで、携帯端末から短い発信音が鳴った。メールを受信した音だ。
「ちょっと、そんなデータどこから手に入れたのよ」
『お前、俺の仕事忘れたのか?』
きっと電話の向こうで唇を歪ませているのだろう。容易に想像がつく。非合法な世界にどっぷり浸かったこの従兄弟は本当に性根が悪い。
普段だったら反発する私も、さすがにここしばらくの出来事の後ではおとなしく従うよりなかった。あの屍兄妹を見た後では、自分の身がかわいくなるのも仕方ないだろう。誰もすすんであんな化け物にはなりたくないのだ。
知り合いの医者の先生が遺跡の外にいたのは偶然だろう。
あの従兄弟の魔手はさすがにここまで伸びないはずだ。
ふむ、と手で顎を撫でつつ、先生はしげしげと一枚の紙を眺める。そこには私の身体の全てが記載されていた。
私は背筋を真っ直ぐ伸ばして先生の前に座る。食いしばりすぎて奥歯が痛い。膝に載せた手を強く握り締め、その宣告を待った。
「理想と言いたいくら健康的な身体だね」
「え」
拍子抜け。何を言われるかと覚悟していたのに。
「肝硬変とか胃潰瘍とかアル中とか!」
「胃潰瘍って自覚症状ないだろう? まず君が病気だという検査結果は出てないよ。ガンマ値も正常。私のほうが驚くくらいだ」
「ほ、ほほほ、本当ですか!?」
いつもは先生相手でも平気でタメ口なのに、思わず敬語で返してしまった。
「こんなことで嘘ついてどうするんだい」
「だって、一日の飲酒量が一升超える日だってあるんですよ!? なのに二日酔い程度で済むわけないじゃないですか!」
「それだけ飲んでも全て分解できてるんだろう。驚くべき肝臓だね」
そう言った先生の口元が引きつっていたのは気のせいだろうか。
「これもこの島の不思議な力のせいなんでしょうか」
「いや、残念ながら君が健康すぎるだけだ。君がくれた来島前の健康診断結果と照らし合わせてみたが、大して変化がない。あえて言うなら体脂肪が落ちているくらいだな」
先生は今回の検査結果と、私が提供した昔の健康診断結果を並べて見せる。
「これだけアルコール分解能力が高いのも珍しいが、異常ではないね。人より並外れているだけで、まだ許容範囲内だよ」
「えー」
「嬉しくないのかね」
「いや、絶対影響あると思っていたんで……」
「何でもかんでも島のせいにしてはいけないよ。もっと自分の身体を信じなさい。ご家族にお酒が強い人はいる?」
「……あ」
言われて思い出した。父、というか蒼凪の血筋は総じて酒に強くない。八歳上の姉は結構強いが、それでも人並みの範囲に収まっている。
だがもう一人、私を超えるの逸材がいた。母だ。
普段は決して飲まないが、母は“枠”とまで呼ばれていた。ザルを超えた酒飲みなのだ。
「心当たりがあるようだね。まあそれでも飲酒量が人よりは多いから、気配りは忘れないように。はいこれ」
グレンさんから渡されたのは、ウコンの塊だった。この数年、私の国でも流行っている、対二日酔いのスパイスだ。私は大して信用していなかったが、本職の先生が推奨するんだから効果があるのだろう。そう思ったのだが、
「君のことだから効かないだろうけど、気休めにはなるんじゃないかな」
やはりおまじない程度でしかないようだった。
「おいリン、サボって病院とはどういうことだ」
「肝臓が……」
「お前、まさか」
「肝臓が、とても綺麗でした」
「何だと……?」
「というわけで、ミヅチ君と飲んでくるわ! 後はよろしくね!」
「おい、待て!」