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父と子の往復書簡・46日目

時計 2008/07/11

 ――島ではない何処か。

 今日は早く仕事が終わった。いつもなら常連となった店で一杯やっているところだが、この日ばかりは誰かに会いたかった。誰かに優しくしたい気分だった。家族でもいい。友達でもいい。数年来顔を見ていない古い友人に電話をしてもいいだろう。とにかく上司同僚以外と話したかった。そして今日の首尾を聞いてもらいたかった。
 本当に誰でも良かった。それこそ社食のおばちゃんでも駅員でもはてはご近所のポチまで。
 だけど今夜の彼女は弟分を選んだ。やはり明確な理由もなかった。
 手土産のケーキと自分用のビール缶を駅前で買い、夕暮れの町を歩いていく。自宅に帰るばかりであれば寂しさばかりが募っていたことだろう。けれど、誰かの家に向かうと思えば足取りが軽くなる。たとえ疲れ果てていたとしても。相手が十歳下の従弟だとしても。
 従弟の家は郊外にあるアパートの一室だ。鍵を貰っている十和子は断りなく入っても良いのだが、一応インターフォンを押した。勝手知ったるとは言えどここは人の家。最低限の礼儀は必要だ。すると、
「十和姉だよね? 鍵開いてるから入ってきて」
 いつもにこやかに出迎えてくるはずの声が、部屋の奥のほうから聞こえた。
「あんた何してんの?」
 部屋に入るなり十和子は呆気にとられた。狭いベランダで従弟の壱哉が笹竹を背負っていたのだ。
「ん、ちょっとご近所から貰ってきた」
 夕闇迫る町並みを背景に、青年が笹を背負っている姿は異様に見えないこともない。怪訝な顔をする十和子に、
「今日は七夕だよ。忙しすぎて日付も忘れちゃった?」
 壱哉は苦笑してみせた。そういえば駅前商店街を抜けてくるところで七夕飾りを見たような気もする。どことなく街が華やかに見えたのもそのせいだったかもしれない。
 壱哉は苦労してベランダに笹を括りつけると、今度は枝に飾りをつけはじめた。一つずつ折り紙で作ったらしい。鮮やかな色が夜の街と緑の笹に映える。
「そんな季節なのね」
「十和姉も書く?」
 従弟が指差した食卓の上には、短冊とペンが転がっている。その何本かは既に書き込まれていた。
 十和子は持参したビールのタブを空け、一口飲んでから短冊を手に取る。ベランダから吹き込んだ風が、右手にぶら下げたそれを揺らした。
 願いは自身と大切な人たちの健康。
 もう一枚は、愛娘の無事と幸せを願うもの。
 十和子は少しだけ微笑んで、自分用にペンを取った。

続き


 その日は何の偶然か、親友から顔見知りまで、皆が遺跡の外にいた。
 今思えばそれは彦星と織姫がもたらしてくれた、最後のひと時だったのかもしれない。


 宵闇が裾のほうから広がってきた。黄昏の淡い光を残して闇が濃くなっていく。零はカンテラに火を入れ、笹の下に置いた。それぞれの願いが書かれた短冊が柔らかい光に照らし出され、昼とはまた違う顔を見せる。瑞々しい若緑の笹はかすかな憂いを帯びる。
 最初は一人でささやかにやるつもりだった。少しだけ日本の空気を思い出せればそれで十分だった。小ぶりな枝に短冊を吊るし、こっそりと空に願えればそれだけで満足だ。誰の目にも触れないからこそ、素直な気持ちで願い事ができる。
 だから賑やかなバザールから少し離れたところに笹を置くことにした。本当は木を隠すなら森の中なのだが、あまり奥まで入り込む勇気もない。人目に付くのは気が進まなかったものの、道から少し外れたところに場所を構えた。
 具合のいい笹を探すのは仲間である菅原が手伝ってくれた。小さいのでいいと言ったのに、大は小も兼ねると言って、身の丈よりも大きな枝をとってきた。それを一人で担いで運ぶのだから、やはり男にはかなわないと思う。
 親友の式村彩に連絡をしたら彼女とその仲間たちも面白そうと言ってやってきた。
 賑やかな仲間が集えば少々目立つようで、何事かと人が集まってくる。やがて七夕など知らないはずの人間も短冊を書いたり、飾りの折り紙を始めた。東洋の見知らぬ国の行事は彼らの目には大層奇異見えたに違いない。しかしそれでも実に楽しそうに笹を飾りつける。
 それがまだ空が明るかった頃のこと。
 今ではすっかり辺りも暗くなり、人の顔も判別がつきにくくなってきた。カンテラを数個、足元に置いてはいるが、光量はできるだけ抑えてある。
 今や一山もありそうなほどに飾り付けられた笹が重たそうに枝を揺らす。
「ゼロさーん」
 幼い少女が手を振ってやってきた。普段はハリボテのレンガ壁を被っている変わった娘だが、今日は朝顔柄の浴衣を着ていた。背中で珊瑚色の金魚帯が揺れている。
 傍らには灯明を持った背の高い女性が付き添っていた。肩もへそも剥き出しの露出度の高い服装だが、不思議とそれがごく自然に見える。
「ナズナちゃん、エリカさん」
 笹飾りを眺めていた零はにこやかに二人を迎えた。思わぬうちに人が集まってしまったので、遊びに来ないかと誘ってみたのだ。
「差し入れ持ってきたぞ」
 エリカが箱を差し出してきた。受け取るとずっしりと重い。ケーキボックスの中にはプリンが幾つか入っていた。最近改装したコンビニで取り扱いを始めたものだ。
「わぁ、美味しそう」
「ナズナのオススメなのです」
 少女がえっへんと胸を張る。
「全員で分けたいけど、ちょっと少ないかな」
 入れ替わり立ち代わり人はやってくるけれど、人が減る様子はない。笹の足元に置かれた台には短冊とペンを置き、自由に書けるようにしていた。今では様々な言語で書かれた願い事が、笹の葉とともに夜風に揺れている。
 ナズナが零を手招いた。膝を折って顔を近づけると、神妙な声でこんなことを言った。
「後でゼロさん一人でこっそり食べちゃってくださいね」
 真剣な耳打ちに零は微笑む。
「ありがと。だったら今三人で食べちゃおっか」
 置いておいたら誰かに見つかってしまいそうな気もするし、独り占めするには多かった。
「いいんですか?」
 ナズナの顔が明るくなる。女性三人で秘密と甘い物を共有する。そんな話が楽しくないはずがない。
「その前にこれ書いてみる?」
 二人に短冊をペンを渡す。七夕の説明をしようかと思ったら、ナズナは既に短冊に願い事を書き始めていた。幼い外見ながら色々知っているらしい。もしかしたら主人である鬼城勝から教えてもらっているのかもしれない。
 一方でエリカのほうは短冊を手に戸惑っていた。人ではない彼女には、こんな紙切れに願い事を書くという行為自体が理解できないらしい。由来から丁寧に説明すると納得したようで、ならばやってみようと書き始めた。
「あの」真剣に考えている二人におずおずと零は問う。「ところで鬼城さんと隼人さんは?」
 ここにいない人間の名前を口にするだけなのに、何故か二人と目を合わせられない。ナズナとエリカは顔を見合わせて肩を竦めた。
「二人は、その、ちょっと手が空かないようでな」
 エリカの歯切れが悪い。
「た、多分後からこっそり覗きに来ますよ! マスターたちはシャイですから」
「そう……なんだ」
 あれ、と零の心に疑問符が浮かんだ。どうして私はこんなに落胆しているんだろう?
 道の先、バザールのほうを見やる。誰かが楽器をかき鳴らしているらしい。素人商人の呼び込みの声に混ざって、軽やかな音楽が聞こえてくる。夜はまだまだ長く、冒険者たちは遺跡外での一時を遅くまで楽しむつもりであるらしい。
 明かりに照らされ、バザールのテントに人々の影が大きく映る。いつの間にか、そこに見知ったシルエットはないかと探している自分がいた。そのことに気付いて頭を振り、大きく息をついて空を見上げた。
 黒塗りの空に大小の星々が瞬く。今日は昼もよく晴れ、夜も晴れた。幸い今夜は新月で、侵入者のように天球の端からやってくる雲もない。落ちてきそうなほどの満天の夜空だ。海に囲まれた孤島、そして日本とは異なり化学技術に汚染されていない環境。夜気はどこまでも澄み、無駄な光もない。だからこそありのままの空がここにある。
 霞のように天球を横切るのは天の河だ。極小の星の群れを挟み、両岸には一際輝きが強い星が二つある。織女星と牽牛星だ。恋人同士の星は年に一度、一晩だけ出会うことを許される。
 セーラー服のポケットから折り畳んだ紙を取り出して広げた。若竹色と浅葱色の二枚の短冊だった。若竹色のほうには故郷の父親の健康と無事を願った。浅葱色のもう一枚も広げてみたが、こちらはすぐにまた折り畳んだ。小さく畳んで掌で包み込み、胸に置く。ちょうど祈っているような格好なのだが、零にその自覚はない。
 昨年の夏、海辺で見たのもこの空だった。花火大会の夜に、二人で見上げたそこにも、大きな天の河が横たわっていた。
 優しさを知ったのもその夜だった。
 星は静かに瞬く。星たちだけは零の願い事を知っている。


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