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父と子の往復書簡・55日目

時計 2008/09/19

「今、何と仰いました?」
 遺跡の外の、少し開けた広場に市が立っていた。素人商人が各自の戦利品を持ち寄って売り買いし、時には各種製品の作製請負もする場である。
 その一角、茶を飲めるスペースで零は一休みしていた。露天に椅子とテーブルを並べただけの店ではあるが、零のような探索者たちにとっては文明的な休息を取れる貴重な場であった。
 遺跡の外に出れば取引と補給に追われてなかなか忙しい。仲間たちも銘々買出しに走り、散り散りとなっていた。この市場の何処かにはいるのだろうが、人混みに紛れて姿が見えない。
「だから、明日はエドさんと一緒」
 黒目黒髪、学ラン姿の青年が零にそう告げる。出会った頃よりもまた背が伸びたように思える。それとも低いところから見上げているからそう見えるだけなのだろう。
 もっとも、そう思ったのは一瞬だけのことで、零は青年の言葉に容赦のない現実を見る。目が眩む。もう夏は過ぎたはずなのに、市場の向こうに陽炎のようなものが見えた。視界が揺れる。

続き

 零はテーブルの足を見詰めたまま絶句していた。
「何回でも言いますよ。明日はエドさんと一緒」
 だからそこから出てきてください。
 そう言い添えて青年は溜息をつく。椅子は腰を下ろすため、テーブルは肘をつくためにある。下に潜り込むのは地震が来た時だけだ。
 連絡に来た青年を見るや否や、零はテーブルの下に身を隠した。天板の下からそっと青年の顔を見上げる姿は、傍から見ればいじめられっ子のようにしか見えない。壁か何かの後ろに隠れたかったのだろうが、残念ながら露天の店には少女一人分の遮蔽物はなく、選択肢はテーブルしかなかった。
 そんな姿を見るたびに青年の溜息が増える。極度の男性恐怖症とわかってはいても、顔を合わせるたびに視線を逸らされているのでは悲しいとしか言いようがないだろう。すでにかなりの日々、道を共にしているはずなのに。慣れた様子を見せたかと思えばまたこれなのだ。
 それでも会話が成立できている分だけマシと言ったのは誰だっただろうか。
 零の身体が小刻みに震えている。蒼白の顔に冷や汗を浮かべ、目の前のテーブルの足を強く握り締めていた。
「エドさん嫌いでしたっけ?」
「い、いえ、そんなことは、決して」
 周囲の客の視線が痛い。給仕の女と、店主らしい男の視線も痛い。物言いたげな群集に謝りながら、青年はしゃがみ込んだ。零は見ているほうが可哀想になるほど身体を強張らせ、驚くほどの速さで今度は椅子の後ろに移った。
「嫌いとかそんなんじゃないです。まったく全然そんなじゃないです」
 顔面蒼白のまま、幾度も幾度も首を振る。
「まぐろさんならともかく、エドさんはまだ普通じゃないですか。むしろ僕より細いくらい?」
「で、でもでもでもでも」
 口元がわななき、次の言を告げようとしては黙り、また開いてはどもる。鯉のように口を開いては閉じるを繰り返す。
 零がここまでエドを苦手とする要素が思い当たらない。もちろん男性という前提はあるが、まったく知らない仲ではないし、零が最も苦手な筋骨隆々の体型でもない。戦闘練習はしても敵対したこともない。普通の男性以上の何を恐れているというのか。
 首を捻っていた青年は「あ」と声を漏らした。唐突に思い至る。
「もしかしてあれですか。皇帝オーラ」
 零はまた身体を強張らせた。図星であるらしい。
 旅の魔道士を自称する青年は、旅の者には似つかわしくないほどの威厳を備えていた。何処かの国王ではないかと噂が立つほどだ。その威風堂々とした態度に、どちらかと言えば気の小さい零が気圧されるのもやむを得ない。
「あれは仕方ないと思うんだよな。ああいうのって生来の物だし、慣れるしかないですよ」
 零の口が声を出さずに「無理」と言い、また小刻みに震え始める。怖くないと頭ではわかっていても、身体が動かなくなってしまう性格のようだ。
「参ったな」
 テーブルの下で会話する若者二人の図は悪目立ちする。青年もさっさと零を連れて引き上げたいところだが、肝心の当人がテコでも動く様子がない。小さな声でごめんなさいと謝り続ける。
「何やってるんだ?」
 と、二人に影が落ちてきた。もちろん夜になったわけではない。青年が首をめぐらせて見上げると、整った顔の青年がこちらを見下ろしていた。件のエドという青年である。彼は仕立ての良さそうな長いマントをつけ、買物の途中であったのか袋を手に提げていた。
 彼の顔を見て明らかに零の顔色が変わった。さすがに逃げ出すことまではしないが、心中で何が起こっているのか、赤くなったり青くなったりを繰り返している。
「……私は嫌われているのか?」
「違う、とは思います」
 怪訝な顔で問うエドに、歯切れ悪く青年が答えた。青年から一通りの説明を受けると得心したのか、大きく頷き、
「チャームの魔法でどうにかすればいいのだな」
「ペット化してどうするんですか」
 突拍子もない答えに、青年は今日何度目になるかわからない溜息をつく。溜息をつくたびに幸せが逃げていくならば、彼の幸せはとっくの昔に尽きている。
「エドさんは皇帝オーラをしまってください」
「そう簡単に出し入れできるか」
「だったらどうすればいいんですか。このままでは遺跡に入れない」
 エドは少し考える素振りを見せ、青年に荷物を預けるとマントを外した。良い生地を使っているのか、滑らかな風合いのマントだ。旅の魔導師が身に着けるには過ぎた品であり、これもまた彼の国王説を疑わせる物の一つだった。
 彼はそれを零の頭から被せた。
「顔が見えなければいいのだろう。慣れるまではそれを被ってろ」
 強い口調だが、言い放つ言葉に棘はない。
 突然視界が暗転したことで零が取り乱すかと思えば、まったく微動だにしない。それどころか、
「く、暗いところは苦手なんですが……」
 そんなことを呟いた。これまでは話そうにもうまくいかなかったのに、言葉は実に滑らかに出てきた。零はマントの下から顔を半分だけ出し、
「……ありがとうございます」
「慣れたら返せよ。ライナスの毛布にされたら困るからな」
 はにかんだような笑みを見せ、零が椅子の後ろから立ち上がる。
「では行きますか」
 学ランの青年が促す。ようやくこの場を離れられる安堵感で、実に晴れやかな表情になっていた。
「なあ」
 先に立って歩き始めた青年に、エドが声をかける。
「君たちはいつもこの距離で歩いていたのか?」
 青年は爽やかな表情のまま振り返り、力強く頷いた。
「これは一緒に歩くという距離ではないと思うのだが」
 エドはややうんざりとした顔で後方を指差す。
 そこには家三軒分の距離を開けて付いてくる零の姿があった。