Entry

Day2 /Killy

 その女はかつて名を持たなかった。

 名を持たぬ人間なぞいるかと言うと、人間じゃないから、と答えた。
 では今名乗った名はなんなのだと聞くと、奪った物だと答えた。
 人の名を、地位を、名誉を、家族を、生活を、全て奪い、己の物にしたのだと。
 女は眼鏡の鼻当て部分を持ち上げながらそう言った。

 その名は東洋人のようであったが、容姿は明らかに東洋人ではなかった。

 この世界では偽名など珍しくもない。

 本当の名を教えてくれないかと冗談半分に言うと、ひとつ前の名前なら、と教えてくれた。
 白い指が髪の切れ端に書いたのは、知らない文字だった。呪文のような文字は、見ているだけで胸をかき乱される。禍々しい字面は不安を呼び起こし、発音まで聞く気にはなれなかった。

 これは人が口にしてはいけないものよ。

 女は無邪気にそう言った。
 聞いた人間からは何かを奪わねばならない。それがルールだ、とも言った。
 顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。開き切った瞳孔の向こうに、深淵なる闇が見えた。
 聞いてしまったことを後悔したが、遅かった。
 女の手がこちらの顔に伸びる。殺される、と本能が頭蓋の中に警鐘を響かせる。

 だけど今は特に欲しい物もないから見逃してあげる。
 明るく言った女の指が目の前から逸れ、揺れる扉から出て行った。

 それ以降、女の姿を見ることはなかった。