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Day17 /Killy

 この世界は多少は面白味もあったが、やはりどことなく退屈であることには変わらなかった。
 動き出す植物も、巨大化した動物も、黄泉から還ってきた死者も、一時の退屈しのぎにはなったが、屠ればまたすぐに暇になる。
 この世界は平和だった。
 危機が迫っていると聞いてはいたが、魔女にとってはまったくの平和に見えた。来訪までは地獄や魔界のような混沌とした世界を想像していたのだ。街で暴れまくる林檎など、脱力するような光景だった。巨大化したハムスターも見慣れてしまえばかわいいものだ。
「面白いことないかしら」
 忘れかけていた口癖が、再び口をついて出るようになっていた。

 そんな折、酒場である男の噂を聞いた。酔いが回っていたら聞き逃してしまいそうなほどに平凡で、つまらない男の話だった。極端に色素が薄いという以外には特徴もない、有象無象が闊歩する世界においては珍しいくらい没個性の男。
 その男はこの世界ではなく、もう一つの分割世界、掃き溜めである否定の地にいるという。
 ああ、と魔女は口を歪めて笑う。
 あの男はそんなところに堕とされてしまったのか。

 いつもならば進む道の片隅に転がっていた小石のことなど忘れてしまっていただろう。だが。
 元の主を思い出しているのか、紫色の目が疼く。
「またあれで遊べたらいいわね」

 グラスと金をカウンターに置いて魔女は酒場を出たが、彼女が立ち去ったことに気付いた者はいなかった。

Day5 /Killy

 提案は唐突だった。
「ここからはしばらく二人一組で行動します」
「は?」
 同行の男からの宣言に魔女は眉根を寄せた。端正な顔が凶悪に歪む。相談もなしに突然告げられれば、誰でもこういう表情をするはずだ。
 しかし男はそんな魔女の不満の声など意に介さず、鬼のような面構えにも臆することなく、のんびりとした口調で話を続ける。この男はいつもそうだ。全て自分のペースで動き、人の調子を狂わせる。
「平坦な旅程ではありますが、安全策を取るということで」
「は?」
 安全策、と言われても理解しがたい。つい先ほどハムスターを退治するという依頼を終え、後は一直線に街へ向かうだけだ。低い山をひとつ越えると砂漠の向こうに街が見える。その砂漠も半日とかからず渡れるくらい狭いものだ。
 なのに、パーティーを分ける必要があるのだろうか。
「で、私たちは夫婦で行動します」
「ああ、そういうこと」
 二人の時間が欲しい。そういうことなのだろう。
 男は妻を伴ってこの世界へやってきた。世界の危機がどうの復元がどうのという話は知っているはずなのだが、どうにも旅行気分が抜けていない。「おのぼりさん」としか思えないたびたびの発言には、先行きが思いやられることもあった。
 そんな男のペースに少々疲れを覚えていた魔女にとって、パーティー分割の提案は悪い話ではなかった。四六時中一緒にいるよりは、時折距離を置いたほうが人間関係も円滑にいくものだ。
 もっとも、このタイミングというのは解せないわけではない。さっさと踏破して街で休めばいくらでも二人きりにしてやるというのに。
「お邪魔虫は消えろってことね。わかったわ」
 大袈裟に溜息をついてやる。
「いえ、そういうわけでは」
 少し顔を赤らめた男に指を突き付け、黙らせる。
「それで、私はどうすればいいのかしら?」
「キリイさんはあちらの方と」
 男が指差したそこには――

 犬。
 角が生えた、犬。

 青と白の豊かな毛並みで、ユニコーンのごとく額から見事な角が生えている。狼かとも思ったが、どうにも緊張感に欠ける顔は平和に慣れきった飼い犬のそれである。
 魔女は眉間に指を押し当て、これ見よがしに溜息をついた。
「このとけた顔の犬と?」
「犬じゃないよ。魔獣だよ」
 少年のような声で犬が喋った。しかし獣が人語を話したところで驚くような魔女ではない。何しろこの世界ではタワシが意思を持って飛んでくるのだ。無機物でそれなのだがら、動物が人と変わらぬ知性を持っていても不思議ではない。
「犬じゃない」
「魔獣だよ」
「犬以外の何だって言うのよ」
「魔獣」
「好きな食べ物は?」
「骨付き肉」
「自分は犬と認めたほうが楽よ?」
「魔獣」
「じゃあ私の狗におなり」
「お断りします」
「犬の分際で私に歯向かう気? 特製の首輪付けるわよ、この犬っころ!」
「魔獣だってば!」
 魔女と自称魔獣は押し問答を繰り返す。「後は二人でごゆっくり」と囁いて男は去って行ったが、魔女も獣もそれに気付いた様子はない。

 この一人と一頭の間に大猪が割って入ってくるのは、この後すぐのことである。

Day4 /Killy

 何故と問われても退屈凌ぎとしか答えようがない。
 女は常に退屈だった。

 求めてやまなかった術は飽きるほど永い時を与えてくれた。
 己の出自も真の名も忘れてしまうほどの永さだ。
 永い時は学ぶには短すぎ、娯楽に費やすには長すぎた。
 学ぶほどの根気もなく、かと言って絶えず遊びを思いつくほどの才能もない。
 どちらも熱心にやるほどの意欲がなかった女は、結果、暇になった。

 暇に飽かして、目につくものを壊してみた。
 欲しいと思ったものは手に入れた。
 手に入ったものはすぐに飽きた。

 次々と壊し、手に入れ、そして捨てた。

 いつしか人は女を魔女と呼んだ。鬼と呼んだ。悪魔と呼んだ。災厄と呼んだ。
 しかし女はそんな二つ名など意に介さず、思うがままに行動した。
 いくつもの国境を越え、いくつもの街を渡り歩いた。

 時だけは永遠にあった。


 そして、それも通り道の一つだった。
 とある国のとある小さな農村の、どこにでもあるような道だった。

 すでに通り過ぎた小道のことなど、女は欠片も覚えていない。

Day2 /Killy

 その女はかつて名を持たなかった。

 名を持たぬ人間なぞいるかと言うと、人間じゃないから、と答えた。
 では今名乗った名はなんなのだと聞くと、奪った物だと答えた。
 人の名を、地位を、名誉を、家族を、生活を、全て奪い、己の物にしたのだと。
 女は眼鏡の鼻当て部分を持ち上げながらそう言った。

 その名は東洋人のようであったが、容姿は明らかに東洋人ではなかった。

 この世界では偽名など珍しくもない。

 本当の名を教えてくれないかと冗談半分に言うと、ひとつ前の名前なら、と教えてくれた。
 白い指が髪の切れ端に書いたのは、知らない文字だった。呪文のような文字は、見ているだけで胸をかき乱される。禍々しい字面は不安を呼び起こし、発音まで聞く気にはなれなかった。

 これは人が口にしてはいけないものよ。

 女は無邪気にそう言った。
 聞いた人間からは何かを奪わねばならない。それがルールだ、とも言った。
 顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。開き切った瞳孔の向こうに、深淵なる闇が見えた。
 聞いてしまったことを後悔したが、遅かった。
 女の手がこちらの顔に伸びる。殺される、と本能が頭蓋の中に警鐘を響かせる。

 だけど今は特に欲しい物もないから見逃してあげる。
 明るく言った女の指が目の前から逸れ、揺れる扉から出て行った。

 それ以降、女の姿を見ることはなかった。

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