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父と子の往復書簡・70日目

時計 2009/01/28

「むーん。まだたりないのよー」
 口元に何かの食べかすをつけたまま、メイファは深い森を当てもなく彷徨っていた。彼女に言わせれば暇潰しの散歩なのだが、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、果ては戻ってみたりと落ち着きのない足取りはどう見ても迷子である。
「どーしよーかなー。みちくさはたべちゃダメだよねー?」
 藪の葉を触ってみるが、硬いい上に筋張っていて、食用に適しているとは思えない。
「おなかすいたのよー」
 腹の辺りを撫でる。コンビニでお菓子を買ってくれば良かったと後悔する。
「プリンとかーあんまんとかーホームランバーとかーステーキとかー」
 おいしいお菓子を想像すれば更に腹が減るのだが、それでもメイファの妄想は止まらない。
「……ん?」
 その足が止まった。
 まだ幼いと言えど、半人半獣の種族である。五感は人間のそれよりも鋭い。
 獣の嗅覚が何かを捕らえた。
「いいにおいがするのよ?」
 物が焼ける香ばしい匂い。匂いの元を求めてメイファはあたりを見回す。
 兎の視野に人間の視力。そして鋭い嗅覚。この三つが揃えば位置の特定など容易なもので、メイファは茂みの向こうにそれを見つけた。
 森に紛れてしまいそうな、緑色の髪の少年だった。年の頃はメイファよりも幾つか上だろうか。精神を集中しているのか、薄く目を開いたまま微動だにしない。
「このにおい、しってる……」
 そう、それは懐かしい香り――
 まだこの島に来る前、身元引受人となってくれた男がよく作ってくれた。
 小麦粉を練って形作るのも手伝ったことがある。
 それがかまどから出てくる時ほど、心ときめく瞬間を知らない。

 そして彼女が愛してやまない、あの人の――

「すがーらさんとおなじにおい……」

 そしてメイファは一陣の風となり、

「おにーさん、それちょーだぁーーーい!」
「うわあああああああ!!」

 森に悲鳴がこだました。


「エドさん、あんぱん無理でした。ごめんなさい」
「難しかったのか?」
「いえ……食べられてしまいました。獰猛な獣に」


* * *


 一方その頃。
 深い森の中で制服姿の少女が立ち尽くしていた。
 目の前には、かわいいんだかかわいくないんだかよくわからない、丸っこいぬいぐるみのような物がある。
 どんな物に出会っても礼儀だけは忘れない。そう躾けられているのだが、”これ”にはどう対応していいかわからないでいた。

「えっと、あなたはどちら様ですか?」
「我は何処にでも在り、何処にも無い者。汝が望めば、望む姿に具現化し、虚ろに満たされし空の彼方に一つ聖光の笛を吹けば闇より出でし災厄の騎士が青褪めた馬と共に世界に罪悪の種をばら撒かんと血に濡れた紅の鎌を一閃させるその刃先に銀の月光が映りて薔薇十字の刻印を受けし殉教者たちが嘆き奏でる祈りの詩を」
「菅原さーん、帰ってきてー!」

 少女は目の端を拭いつつ、階段へ向かって一目散に駆けていった。